これまでのスマートビルディングや見守りシステムにおける空間データ収集は、監視カメラをはじめとする「視覚(ビジュアル)データ」に頼らざるを得なかった。しかしそこには、常にプライバシー侵害の法的・人道的リスク、ネットワーク帯域の浪費、そして配線工事における莫大なコストという「三位一体の壁」が立ちはだかっていた。
このジレンマに対し、「カメラ(視覚)」ではなく「熱(触覚)」を模倣した、プライバシー重視のワイヤレスの赤外線センサーと、高度な時系列AIモデルを組み合わせることで、空間の解像度を劇的に塗り替えるスタートアップがある。米国マサチューセッツ州を拠点とするMIT(マサチューセッツ工科大学)発のスタートアップ、Butlr(バトラー)だ。
世界トップクラスのAI企業やフォーチュン500企業がこぞって同社を標準採用する最大の理由は、単なる「匿名性」に留まらない。同社は今、空間データをAIエージェントが自律的に活用できるオープン規格「MCP(Model Context Protocol)Native」に対応し、さらに2026年8月3日には自然言語で空間と会話できる「Butlr Agent」をリリースするなど、建築を「デジタルOS」へと昇華させる「Physical AI(物理AI)」のフロントランナーとして急進している。
オフィスの利用状況把握、介護現場での転倒検知、データセンターの冷却最適化――。「見る」ことなく空間を理解する技術は、建物に何をもたらすのか。共同創業者兼CEOのホンハオ・デン(Honghao Deng)氏に聞いた。
目次
・照明をつけるために手を振らなくていい建物へ
・なぜカメラではなく赤外線センサーなのか
・「MCP Native」と「Ask Butlr」がもたらす「Agent-First」な空間OS
・空調や清掃から高齢者の見守りまで
・日本市場の社会的課題への適合と、リコー(Ricoh)との強力なグローバル協業
・長期ビジョン:すべての建築を包み込む「見守るインフラ」へ
照明をつけるために手を振らなくていい建物へ
―まず、デンさんの建築というバックグラウンドと、バトラーを起業した原点について教えてください。
私は学部で建築を学び、修士でコンピューターサイエンスやコンピュテーショナルデザイン(計算機デザイン)を研究しました。私にとって「センサーを建物に入れる」という行為は、「建築 + テクノロジー」というごく自然な掛け算から始まったものです。
多くの人は、建物を「単なる静的な箱」や「活動を収めるだけの屋根」だと捉えています。しかし、私が建築を学ぶ中で行き着いたのは、「建築環境こそが、私たちの周りにある最大のユーザーインターフェース(UI)である」という視点です。現在、スマートフォンやPCの画面を通じて会話をしていますが、これらは小さなUIに過ぎません。毎日目覚め、生活を営むこの物理的な環境こそが最大のUIであり、そこには「世界80億人のデイリー・アクティブ・ユーザー(DAU)」が存在しているのです。
しかし残念なことに、これほど巨大なUIでありながら、現在の建物は「中にいるユーザーが何をしているか」という極めてシンプルなことすら理解していません。
―「建物が人を理解していない」ことで、具体的にどのような不便や問題が起きているのでしょうか。
象徴的なのは、誰もが一度は経験したことがある「照明を点け直すために、センサーの前で手を振ってダンスをしなければならない」というあの皮肉な状況です。部屋で静かに作業しているだけで、建物側は「誰もいない」と判断して容赦なく電気を消してしまう。10年経ってもまだ手を振り回してダンスをしなければ照明が点かないような世界は、私は絶対に間違っていると信じています。
そして、この「建物の無知」は、より深刻なエネルギーや資金の浪費に直結しています。現在、世界全体のエネルギー消費量の約40%を「建物」が占めています。オフィスビルでは、誰もいないフロアで空調や照明がフル稼働し、莫大なコストと環境負荷が垂れ流されているのです。さらに「誰も使っていないトイレや会議室」を毎朝スケジュール通りに清掃するような、深刻な労働力・人件費の無駄も発生しています。
将来、AIが物理的な「身体」を持って私たちの日常生活と相互作用(インタラクション)するようになるとすれば、この建築環境というインターフェースがその最大の肉体となるはずです。だからこそ、私たちは建物を「レスポンシブ(応答性があるもの)」に変え、個々のニーズや安全性を自律的に理解するOS(オペレーティングシステム)を実装しなければならないと考え、MITメディアラボのCity Science Groupからバトラーをスピンオフさせました。
なぜカメラではなく赤外線センサーなのか
―建物に「感覚」を持たせるアプローチとして、なぜカメラ(監視カメラ)ではなく「熱(赤外線)」だったのでしょうか?
建物が中にいる人間の温もり、寒さ、安全性、そして危険を理解するためには、確かにセンサー入力が必要です。しかし、そのために最も安易に選ばれる「カメラ」を張り巡らせる未来を、誰も望んではいません。「ビッグブラザー(監視社会)の目」が建物中の至る所で自分を監視しているような世界は、人間らしく生きる場所として不適切だからです。
これは高齢者の見守りでも同じです。いくら自分の健康や転倒リスクを心配しているからといって、80歳になった私が、プライベートな個室や浴室、トイレの中にまでCCTV(監視カメラ)を設置され、孫たちに監視される生活を受け入れるかと言えば、答えは絶対に「ノー」です。
そこで私たちは、空間に「目(視覚)」を増やすのをやめ、代わりに「手(触覚)」を与えることにしました。触覚であれば、カメラのように「誰が誰であるか」という顔や服装などのビジュアル(識別情報)を一切取得することなく、空間の温もりを感知し、誰かが部屋で倒れているといった「リスク」だけを完璧に検知できます。
私たちがCity Science Groupで約20年前から開始した初期研究の核心は、「赤外線(IR)のブラックボディ放射(黒体放射)エネルギーの強度を測定し、それを表面温度データへ変換する」という技術にあります。これにより、物理的に個人特定が100%不可能な「建物の触覚」を再現することに成功したのです。
―最新世代のセンサーを拝見すると、レンズのようなものが一切見当たりませんね。開発において最も困難だった技術的ブレイクスルーは何ですか?
最新世代のセンサーは、壁に取り付ける一般的な動体検知器のような、極めて「ノイズレス(空間に溶け込む)」なデザインを追求しています。
技術的に最も困難だったのは、プライバシーを保護するためにセンサーの解像度をあえて極限まで落とした結果、「データ上では、人間も温かい物体もまったく同じ『温度の塊(サーマル・ブロブ)』に見えてしまう」という課題でした。
例えば、10×10ピクセル程度の超低解像度グリッドの中で、「テーブルの上に置かれた人間と同等の熱を持つ『餃子の袋(Dumplings)』」や、「熱を帯びた『ノートPC』」、そして「生身の人間」を、どうやって見分ければいいのでしょうか?初期モデルでは、これらを人間だと誤認識してしまうことが実際にありました。
―その「餃子の袋やPC」と「人間」を、どのようにしてAIで見分けることに成功したのですか?
その解決策こそが、私たちの「秘伝のタレ」である独自の時系列AIモデルです。私たちは単一フレームの静止画像データではなく、1秒間に最大10フレームという非常に高い時間周波数(高サンプリングレート)で熱データの時間軸における微細な揺らぎ(オシレーション)を解析しました。
人間には、呼吸や微細な筋肉の動きに伴う「特有の熱の揺らぎ」があります。一方で、テーブルの上の温かい餃子やコーヒー、起動中のノートPCは、時間の経過とともに一定の物理的な冷却曲線・放熱パターンをたどります。
私たちは1日あたり20億フレームという途方もない規模の熱データを収集・蓄積し続け、この時間的な熱変化のパターンをAIに学習させました。この「高頻度な時間軸データ + 時系列ディープラーニング」という強固な参入障壁(モート)により、100%のプライバシー保護と、人間・非生物の完璧な識別・行動検知の両立を成し遂げたのです。
Image : Butlr ワイヤレス熱(赤外線)感知センサー「Heatic 2+」|白・黒の2色展開
「MCP Native」と「Ask Butlr」がもたらす「Agent-First」な空間OS
―バトラーのAIとソフトウェアは、エンタープライズ顧客にどのように活用されているのでしょうか?
私たちの顧客には、フォーチュン500企業や、世界トップクラスのAIテックジャイアントが名を連ねています。こうした目の肥えた洗練された顧客企業がバトラーを標準採用する背景には、私たちが提供するAPIが「MCP(Model Context Protocol)Native」であるという強力な技術的強みがあります。
―「MCP Native」とは、具体的にどういうことでしょうか?
しかし、バトラーは「People-First(人間優先)」であると同時に、「Agent-First(AIエージェント優先)」の思想で設計されています。MCP(Anthropic社などが提唱するAIエージェントとデータソースを繋ぐオープン規格)にネイティブ対応しているため、最先端のAIエージェントが、私たちの空間APIを通じて、「今、物理世界で何が起きているか」を自律的かつリアルタイムに読み取り、シームレスにデータ収集を実行できるのです。
―さらに2026年8月には、新たなAI製品がリリースされました。
はい、2026年8月3日に、自然言語で空間データと対話できる「Ask Butlr」を正式リリースします。(2026年7月取材)
これにより、人間は固定された折れ線グラフを見つめる必要はなくなります。チャットインターフェースを通じて、Ask Butlrに直接問いかけるだけで、高度にカスタマイズされた空間分析レポートを即座に自動生成してくれます。
- 「今、VIP顧客をお迎えするのに最も静かな会議室はどこ?」
- 「このオフィスエリアで、最も利用率の低いデスク群を特定して削減案を作って」
- 「この高齢者施設で、過去の行動パターンから見て、UTI(尿路感染症)や転倒のリスクが最も高まっている入居者は誰?私が次の1時間で個別訪問すべきなのはどのお部屋?」
Image : Butlr HP 「Ask Butlr」紹介ページ
空調や清掃から高齢者の見守りまで
―バトラーが現在提供している、具体的なサービスプラットフォームの構成について教えてください。
私たちは、収集した温度マトリクスから位置情報、人数、姿勢、ベッドの輪郭などを1秒間に10回の超高速で解析し、各ビジネス領域(バーティカル)に最適化した3つのOS的プラットフォームを展開しています。
1. Butlr Workplace(オフィス・研究室・大学向け)
オフィスの利用効率(リアルタイム占有率)を可視化し、フリーアドレス(ホテリング)の自動化や、トラフィックに基づく「スマートクリーニング(動的清掃)」を実現します。例えば、「個室トイレが20回以上使用されたら、清掃スタッフのアプリへ清掃指示を自動送信し、使われていないエリアは清掃をスキップする」という最新機能を実装。これにより清掃コストと労働力を劇的に最適化します。また、大規模なオフィス移転や設計変更の際、従来の「16人用の大会議室を平均2人で使っていた」といった数億円規模の無駄を可視化し、「3〜4人用の小会議室を増設する」といったデータ駆動型の空間最適化をもたらします。
2. Butlr Care(高齢者施設・病院向け)
プライバシー保護が極めて重要であり、かつ深刻な人手不足にあえぐシニアリビングの現場に導入されています。個室内や、最も転倒リスクの高い「夜間の浴室・トイレ」での転倒事故、およびベッドからの離床を検知して即座にナースコールを自動起動します。さらに、「夜間のトイレ訪問回数」の履歴をAIで分析することで、自覚症状のない「尿路感染症(UTI)」や身体の急激な衰弱(フレイル)の予兆を早期にフラグ立てし、介護スタッフに知らせる予防医療的なアプローチを可能にします。
3. Butlr Infrastructure(データセンター向け)
現代のAIデータセンターは、凄まじい熱密度を誇ります。ここではサーバー1ラックあたり500万〜1,000万ドル(日本円で約7.5億〜15億円)という極めて高価なアセットが稼働しています。バトラーのサーマルセンサーは、空間の3次元的なホットスポット(過熱エリア)を常時監視し、異常過熱時にPDU(電源タップ・給電ユニット)を自律的にシャットオフして火災リスクから物理資産を守ると同時に、空調の冷却効率を最大化する自動化プロセスを担います。
Image:Butlr 有線型熱(赤外線)感知センサー「Heatic 2 Wired」
日本市場の社会的課題への適合と、リコー(Ricoh)との強力なグローバル協業
―「超高齢化社会」と「深刻な労働力不足」に直面する日本市場において、バトラーの存在感は高まりそうです。
日本はバトラーにとって最も重要で、かつ特別な情熱を注いでいる市場です。世界一の高齢化に直面し、介護現場の省人化・省力化が「待ったなし」の課題である一方、環境への配慮や建築物の施工・運用クオリティに対する要求水準が「世界一高い」国でもあるからです。
Butlr Careのシステムは、高齢者施設に留まらず、日本における孤独死という非常に痛ましい社会問題の解決にも貢献できます。在宅介護や高齢者の一人暮らし(Aging in Place)の空間において、もし万が一の事態が発生した際、CCTVを置くことなくプライバシーを守りながら、センサーが「静かに呼吸や動きが停止したこと」をタイムリーに検知して家族や医療機関にアラートを送ることができます。数ヶ月後に発見されるといった悲劇を防ぎ、人々の「健康寿命」と「尊厳」を守るインフラになり得るのです。
―主要株主であり戦略的パートナーでもあるリコー(Ricoh)社との協業は、どのように進んでいますか?
リコー社との協業は、単なる資本提携(出資)をはるかに超えた、極めて強固な実務的アライアンスです。
まず、米国子会社である「リコーUSA(Ricoh USA)」が、バトラーのセンサー設置・展開、およびタイムリーな現地メンテナンスを全面的に担う運用部隊(メンテナンス・フリート)を提供してくれています。オフィス空間の配線レス・ワイヤレス運用を維持するために、彼らのグローバルな機動力と信頼性は欠かせません。
日本国内でもリコーとの強固なネットワークを通じて、すでに多くのエンタープライズ顧客へのアプローチが進んでおり、テレビ東京の番組でも私たちの共同取り組みが特集されるなど、非常に高い関心と反響を呼んでいます。
Image : Butlr
長期ビジョン:すべての建築を包み込む「見守るインフラ」へ
―今後2年の短期的なマイルストーン、そして長期的なビジョンについてお聞かせください。
短期的な目標として、すでにブランドが確立されているオフィスビル分野において、「これからの次世代ビルオートメーションにおける、グローバルデファクトスタンダード(標準規格)」の地位を今後2年で不動のものにします。これは米国だけでなく、私たちが最も注力する日本市場でも同様です。そして、シリーズB資金調達から本格参入したシニアリビング(高齢者施設・病院)領域、およびAI需要で爆発的に拡大するデータセンターインフラ領域でも、No.1サーマルAIプラットフォームとしてのブランドを確立します。
長期的なビジョンは、きわめてシンプルです。「この地球上の、あるいは将来人類が宇宙に進出した際の『すべての建物』に、バトラーが組み込まれている未来」を創ることです。
あなたが世界のどこにいても、宇宙ステーションの居住棟にいようとも、ふと天井を見上げた時にバトラーのセンサーがあり、空間そのものが呼吸するように、あなたを優しく、プライバシーを守りながら、最高に安全で快適な状態に包み込んでくれる。そんな空気のような当たり前の「社会的インフラ」に、私たちはなっていきます。
Image : Butlr
私たちがセンサーを1つ設置するたびに、世界の無駄な空調エネルギーが削減され、地球が少しずつ持続可能になります。そして、高齢者施設にセンサーを1つ設置するたびに、誰かのおじいちゃんやおばあちゃんが転倒して怪我をするリスクが減ります。
私たちは単に洗練されたハードウェアやAIソフトウェアというテクノロジーを売っているのではありません。データと物理空間の融合により、この現実の物理世界を少しずつ良くし、人々を安全にするために挑戦を続けているのです。日本の素晴らしいパートナーの皆様と共に、この『レスポンシブな空間OS』が当たり前になる新しい未来を共創できることを楽しみにしています。