キリンホールディングスと電通のジョイントベンチャーとして2019年に設立したINHOP(本社:東京)。ビール製造に欠かせない「ホップ」の健康効果に着目し、開発されたキリンの独自素材「熟成ホップエキス」を活用したさまざまな商品展開や情報発信を通して、ホップの価値を広く提供するプラットフォームの構築を目指している。INHOPの代表取締役社長CEO兼CTOを務めるのが金子裕司氏だ。もともと研究者として機能性素材・食品の研究開発に従事していた金子氏はどのように新規事業開発に携わり、キリンの社内ベンチャーの創業に至ったのか。新規事業に活かせる「研究者の強み」や、イントレプレナーとしての経験などを聞いた。

10年の研究開発を経て実現した「苦味」の軽減

 ホップはアサ科のつる性多年草植物のホップで、ビールの原料としてその味や香りに重要な役割を果たしている。ヨーロッパでは古くからハーブとしてさまざまな健康効果があると信じられており、日常生活に取り入れられてきた。ドイツでは、サプリメントやシロップ、チョコレート、入浴剤といった商品が数多く販売されている。

 金子氏は「ホップは、日本を含め世界中で栽培されており、ハーブとしては世界最大級の栽培量を誇ります。その一方、日本ではホップがハーブだという認知がされておらず、ビール以外に使用されることはほとんどありませんでした。ビール以外になかなか使われない理由は、シンプルに『苦い』ということだったんです」と説明する。

金子裕司
INHOP
代表取締役社長CEO兼CTO
2009年にキリンビールに入社。健康・機能性食品事業推進プロジェクト、健康技術研究所を経て、2019年より現職。入社当時からホップを中心とした機能性素材・食品の研究開発に従事。キリン独自素材「熟成ホップエキス」、同素材を搭載した「キリン カラダフリー」の開発を経て、2019年10月にINHOP株式会社を設立。

 従来、ビール業界では、夏が旬であるホップのフレッシュな苦味や香りを活かすために新鮮なホップをビール製造に使うというのが常識だった。一方、収穫から時間がたつとホップの苦味や香りは落ち着いていくことが経験則的に分かっていたという。キリンホールディングスはそれを逆手にとって、ホップの苦味という課題を解決するため、「熟成」に着目した。

 10年余にわたる研究の結果、その熟成を活かしてホップの苦味をこれまでの約10分の1に低減し、飲料や製菓、サプリメントなどに応用できる健康素材として「熟成ホップエキス」の開発に成功した。熟成させたホップの苦味成分である「熟成ホップ由来苦味酸」にはさまざまな健康機能があることが明らかになった。

 研究に携わってきた金子氏はこう説明する。「ホップの苦味を軽減しつつ、健康機能を維持したままの健康素材を開発できるのではないかと、研究と素材開発に取り組んできました。熟成ホップエキスは苦味の軽減に加え、粉末化したことで食品への応用性が広がりました」

Image:INHOP

 この独自素材を使った新商品として、キリンビールはノンアルコール・ビールテイスト飲料の機能性表示食品「キリン カラダFREE(キリン カラダフリー)」を2019年10月に発売した。同じ日、INHOPが設立した。

「キリン カラダフリーは『お腹まわりの脂肪を減らす』機能性表示食品のノンアルコールビールとして発売し、今までの研究成果を既存事業に活用する、という形で研究開発としては区切りがついた形になりました。研究者としても素材と商品を開発したことでひと区切りつきましたが、このホップの価値をもっともっと広げていくことができるのではないか。そう考えました」

 ビールメーカーとして、これまでホップをビールの原材料として扱ってきた企業が、ホップを活かした素材を広げ、これまでの知見を活かしていくことで、ホップの価値と新たなすそ野を広げていけるのではないか。

「ビール以外にホップの可能性を広げるためには、ホップに特化した事業体を立ち上げていくことが重要ではないかと考えたんです。社内稟議を通していく形で、結果としてINHOP株式会社が社内ベンチャーとして設立しました」

プロダクトアウトの事業体設立 「乾杯」から「健康課題解決」へ

 約11年間にわたり研究開発に従事してきた金子氏は、どのような社内のステップを踏んで、INHOP設立に至ったのか。キリンホールディングスやグループ会社内では、新規事業の立ち上げには主に3つのルートがあると金子氏は説明する。

 1つ目は、各グループ会社やホールディングス内の事業創造部や企画部門が新規事業を立ち上げる方法で、いわゆる一般的な新規事業開発といえる。

 2つ目は社内のビジネスチャレンジ制度に応募して選抜されていく方法。「各事業会社やグループ部門の垣根を越え、自分たちでお客様のペインを探してプロジェクトを設計し、提案していく流れになります。こちらは審査や仮説検証等のゲートを越えていくことによって、実際に世の中にローンチしていこうという活動がビジネスチャレンジという形で数年前から行われています」

 INHOPは、「プロジェクトベース」として、これら2つとは違う「3つ目のルート」で立ち上がった。熟成ホップエキスという、いわゆるプロダクトアウトからの事業体設立の流れであり、「ホップを活用する」という命題からの事業化だった。結果、プロジェクトベースの社内ベンチャー設立という稀有な事例になった。

 金子氏らが徹底して取り組んだのは、

(1)「WHY(なぜ・何のためにやるのか?)」というミッション・ビジョン・意義の確立

(2)「HOW(どうやって実現するのか?)」という問題解決シナリオ

(3)「WHAT(具体的活動は何をするのか?)」という事業内容・事業計画策定

  という事業体設立に向けての整理だった。

「WHY」について、金子氏は「これまで私は研究者という立場でしたので、自分たちの研究成果の熟成ホップエキスを広げたいという、研究者としての思いがありました。これをなぜ事業体として進めていく必要があるのか、キリングループの経営方針、事業戦略と適合させていきながら、どういう活動になるかというところを落とし込んでいきました」と語る。

Image:INHOP

 その上で「WHY」の3点を定義した。1つ目が、キリングループのCSV経営を実践する上で、熟成ホップエキスの活用が広がることで健康課題の解決と、ホップを栽培している地域などの課題解決にもつながるという位置付け。

 2つ目が、既存事業への波及効果。消費者の健康課題に対してアプローチする事業を「新しい出島」に活動が広がることで、キリングループの主力の既存事業にも相乗効果が期待できること。逆に、既存事業では取り組めない領域にチャレンジするという実験をINHOPでやってみることで、キリンホールディングスに活かしていくことができると考えた。

 3つ目が外部アセットの獲得だ。INHOPはキリンホールディングスと電通のジョイントベンチャーであり、「キリン側からは電通のアセットを活用した活動ができるという期待であり、電通側から逆の期待がありました。トライする価値はあるのではないかということでWHYの部分を整理しました」と金子氏は説明する。

 また、「HOW」は、ホップの健康価値を体験できる商材や機会を提供し接点を増やす点、ホップを使いたい、魅力に思うお客様の仲間を増やしていく点、そして、ホップの伝統的な価値や最新の研究成果といった情報を発信し奥行きを広げるという3つの活動に集約した。

 目指すのは「熟成ホップエキスの健康機能を起点として、ホップのさまざまな価値や魅力を提供するプラットフォームを作り、新しいエコシステムを構築していくことで、健康課題を中心とする社会課題を解決していく」ことだ。

「現在ホップを使っているシーンは例えばビールを楽しみ、乾杯するシーンにほとんど限定されています。ここに対して、健康課題の解決という市場規模は非常に大きいところでもあり、ここにホップを展開していきます。ホップを使った商品を作ったり、日本産ホップの栽培という農業課題をパートナーと解決していく。またホップを広めたいと考える地域や行政、企業と共にアプローチをかけていきます」。そんな循環を金子氏はイメージしている。

「ホップの認知や価値が高まっていくことによって、さらにホップを楽しみたい方が増えていくはずですし、情報そのものにも価値が出てくるといった形でホップ全体の新しいエコシステムが作っていけるのでないかと考え、これを目指した活動を行っています」

Image:INHOP

「致命的な問題」とその解決 社内稟議の3つのステップ

「ここまでお話していくと、順調に事業立案が進んだように聞こえるかもしれませんが、実態はそんな簡単な話ではなく、実はかなり致命的な問題が構造的にありました」

「それは『誰の何をどうやって解決するの?』『顧客はお金を払ってくれるの?』という点なんです」と金子氏は明かす。

 INHOPを新規事業に取り組むスタートアップとして捉えると、「いわゆる新規事業の王道とは逆のプロセス」をたどってきたと金子氏は指摘する。

 スタートアップが事業を立ち上げる際と「逆のプロセス」。金子氏はこう説明する。

「本来、顧客のペインであったり、大きな課題があり、お金を払ってでも解決したいという価値の創出があります。つまり、現在は解決する手段がなく悩まれている方々の課題や顧客の特定から始まり、それを解決できる唯一無二のプロダクトやサービスを作っていくことでお客様から対価を頂戴し、事業基盤を整えてスケールさせていく流れです。一方で、INHOPの場合、熟成ホップエキスという形でプロダクトは開発済みでした」

 もちろんホップの研究を進めていく中で健康機能とお客様ニーズを確認し、その市場に対するマスプロダクトを展開すれば、一定の事業価値が期待できることを考えた上で、研究開発に取り組んできた。

「一方、新規事業では小規模の課題感の強いお客様に対してアプローチをかけていく形になります。このお客様が持っている課題に対して、熟成ホップエキスは唯一無二の最適解になるかというと、必ずしもそういうわけではありません」

 このジレンマに対して、ホップの健康機能や特徴で解決できる課題を有するターゲットを明確にし、「解像度を高めていく」ことに注力した。「課題を持つ方々に対しての仮説を立ててアプローチをかけていき、場合によっては自分たちではインタビュー先を開拓してお客様に話を聞いたり、実際にプロトタイプを作ってフィードバックを得て、さらにブラッシュアップするということを重ねています」

Image:INHOP

 また、「WHAT」の事業計画策定の部分は、社内のアセットを最大限に活用した。入社以来、研究畑を歩み、経営企画や事業開発の経験は全くなかった金子氏。

「これまで経験もなく、事業計画を自力で策定していくのは難しかったため、グループとしてのアセットを活用させてもらいました。キリンホールディングスの全部署に対してヒアリングであったり、協力を仰いだりする形で、拙いながらも具体的な計画を策定、落とし込んでいきました」と振り返る。

 社内稟議は、2018年秋、R&D担当役員とともに社長に対して構想段階の提案をした。事業計画策定に対してゴーサインを受け、先述のようなミッションや事業計画案の策定に奔走した。2019年春に取締役との事業計画案のヒアリングや意見交換を経て、2019年夏にINHOPの事業計画と、電通とのジョイントベンチャー設立が決議された流れだった。

「各取締役に対しての個別のヒアリングや意見交換では、事業統括している立場によって視点や指摘は多岐にわたっていて、忌憚のない意見をいただきました。今まで研究者だった私にとって、こうやって事業の取り組みが進められてることを学び、非常に貴重な機会でした」

チームのコミットメントにつながった「自分たちで動く」

 約11年間の研究者としての仕事から一変、新規事業開発と社内ベンチャー設立に携わり、INHOPの社長になって3年を迎える今、金子氏は事業の提案からこれまでの取り組みをこうまとめた。

「提案期のポイントの鍵になったのは3点あります。まず、『ビジョンの明確化』です。『どこの一番星を目指すのか』ということを明確にすることで、前に進めやすくなりました。2つ目は『お客様対話』で、ホップを広げていきたいという思いを机上のリサーチや自分たちの想像ではなく、足で稼いでお客様のお話を聞き、どこにニーズや課題があるか、かなりの回数を重ねて解像度を高めていきました」

 そして、3つ目が「自分たちで動く」ということだという。

「事業計画の策定に際して、コンサルを入れて策定をしていくのはどうかという話もありましたが、自分たちの力で策定をするという判断をしました。正直なところ、INHOPに限らず、新規事業は簡単な話ではなく、立ち上げた後にさまざまな課題や厳しさが数多く出てくることは事前に想定していました。ですので、人から言われた活動ではなく、『自分たちでこういうことをしていきたい』『こういう計画でやろう』ということを明確にすることで、立ち上げた後のコミットメントやモチベーションにも効いてくると考えました」

 実際、この取り組みは非常に活きており、設立当初は8人、現在7人の少数精鋭のチームメンバーでの価値観やコミットメントはきちんと共有されていると語る。

 設立3年を迎えるINHOPは現在、熟成ホップエキスを活かしたサプリメントやグミ、チョコ、調味料といった商品展開に加え、キリングループのシナジーを活かしたファンケルでの商品開発や化粧品の発売なども行った。また、日本産ホップの産地と連携した商品開発にもつなげている。

 また、電通とのジョイントベンチャーという強みを生かし、ブランディングや情報発信の幅も広げている。イントレプレナー・研究者・社長という3つの顔を持つ金子氏自身もWebサービス『note』のアカウントなどを通して、「ホップの可能性」について記事を書き、情報を発信している。

 今後は、BtoCとして機能性表示食品などの収益性を高めていくことに加え、素材を広げていく上でBtoBの素材販売の観点でもホップの価値や魅力を広げていきたいという。

「ホップの花言葉は『希望』で、INHOPは『ホップは、現代を生きる人々の希望になれる』という思いを胸に商品開発に取り組んでいます。『ホップのすそ野を広げていく』ということが非常に大きなミッションであり、ホップはビールに入ってる苦い素材というイメージだけでなく、いろいろな可能性、取り組み、面白さがあるものだということを発信していく必要があると考えています」

新規事業のPDCAを回す力は「研究者の強み」

 キリンホールディングスの社内ベンチャーとして、キリングループが持つ『ものづくり』や品質保証の知見や経験、顧客や法人関係のネットワークといった大企業ならではのアセットを活かし、親会社と密に連携を取りながら、事業を進めているINHOP。

 R&Dの仕事から「社長」となった金子氏は、研究者としての知見が活かせるポイント、強みがあると実感している。それは新規事業に不可欠な仮説検証のスキームだ。

「科学的な事象に対して実験などを行いながら仮説検証を回していくのが研究者です。一方、新規事業の場合はそれが顧客の課題といったところの仮説検証です。研究開発の基本である仮説検証は、新規事業における仮説検証と全く同じ取り組みで、単に対象が変わっただけだというふうに思います。このPDCAのサイクルを回す力は研究者ならではの強みだと思っています。そういう意味では、研究開発に従事している方は新規事業に向いている気質を持っていると思います」

 R&D部門の担当者は「経営について知らない」「事業開発などやったことがない」と躊躇する部分もあるかもしれないが、金子氏は「何かチャレンジしたい気持ちがあるのなら、思い切って踏み込んでみることもいいかなと思います」とエールを送る。

「研究者は自分が取り組んできた研究や発見が世の中に広がって人のために貢献していくことを願っており、新規事業に携わるとき、『なぜあなたがやるのか』と問われた際に明確に答えることができます」

「ゼロイチ」のスタートアップと比べて大企業での新規事業立ち上げは「ある程度リスクを抑えてチャレンジすることができ、非常に貴重な機会だと思います。これからさまざまなキャリアが求められる時代において、研究者でもチャンスがあれば適性があるはずなので、ぜひ前向きに取り組んでみてもいいと思いますし、そうやってチャレンジする人がどんどん増えていってほしいなと個人的にも思います」と語る。

 また、R&Dからの新規事業立ち上げについて、各企業におけるR&Dの位置付けはそれぞれあるだろうとした上で、こう説明する。

「まずはやはり既存事業に対してどう貢献できるのか、その上でどうプラスαが出てくるのかという順になると思います。今回の一連の取り組みは、既存事業という形でキリンの新たな素材として開発し、ノンアルコールビールという商品として展開することで、既存事業への貢献を達成しています。その上でのプラスαの取り組みとして、『次の新しい可能性の探索』を進めていくというのはR&Dの観点からもある意味、筋が通ったものなのかなというふうに思っています」

 INHOPの今後に向けて、「目下のところは、ホップの健康機能を試していただくお客様をどんどん増やしていって、生活の中でホップの機能的価値を体感できるシーンを作り出し、もちろん夜はビール等ホップの情緒的価値を楽しむシーンといった『掛け算』の生活感をつくっていきたいなと考えています」と答えた金子氏。ホップのことを語りだすと止まらないようだ。

「保育園に通う娘からは『パパはホップ組でしょ』と言われます」。真面目な表情から一転、顔をほころばせた。



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