※インタビューシリーズ「シリコンバレーから日本を考える」では、櫛田健児氏(スタンフォード大学ジャパン・プログラム リサーチスカラー)がシリコンバレーの企業・スペシャリストにインタビューし、日本の未来・可能性について掘り下げます。
<目次>
・大学時代に日本屈指の技術系スタートアップCTOを経験。25歳で日本から飛び出して、シリコンバレーで起業した
・シリコンバレーでは全然違う経済とスケールが働いている
・最初、シリコンバレーでの資金調達は鳴かず飛ばず。日本人の先駆者のおかげで、起業の資金を得る
・大企業の参入がきっかけでピボットを決意。これが売上100億円を突破したブレイクスルーだった
大学時代に日本屈指の技術系スタートアップCTOを経験。25歳で日本から飛び出して、シリコンバレーで起業した
――まず太田さんがシリコンバレーで起業するまでの経緯を聞かせてください。
高校生の時に初めて携帯電話を買ってもらいました。その携帯がiアプリといって、Javaのプログラムが動作する端末でした。そこで近くの書店でプログラミングの本を買って、簡単なシューティングゲームを作りました。
すると、それが40万件以上ダウンロードされたんです。塾の帰りなど、隣にいる人が自分の作ったゲームをプレイしているのを見て驚きました。それが最初のコンピュータ、インターネットの原体験で、そこからプログラミングにのめり込んでいきました。
太田 一樹(Treasure Data 共同創業者 取締役)
1985年生まれ。東京大学大学院情報理工学研究科修士課程修了。学部課程在学中の2006年、自然言語処理と検索エンジンの開発を目的とした株式会社Preferred Infrastructure(プリファードインフラストラクチャ)に参画し、最高技術責任者となる。2011年に米シリコンバレーにてTreasure Dataを設立し、カスタマーデータプラットフォーム(CDP)サービス開始。CTOとして事業拡大を牽引。2018年にArmによる買収を経てArmデータビジネスユニット VP of Technologyを務めた後、現在はTreasure Data取締役。
聞き手:櫛田 健児(スタンフォード大学アジア太平洋研究所 Research Scholar)
1978年生まれ。スタンフォード大学で経済学、東アジア研究の学士修了、カリフォルニア大学バークレー校政治学部で博士号修得。2011年よりスタンフォード大学アジア太平洋研究所 Research Scholar。主な研究と活動のテーマはシリコンバレーのエコシステムとイノベーション、日本企業はどうすればグローバルに活躍できるのか、情報通信(IT) イノベーションなどで、学術論文や一般向け書籍を多数出版。おもな著書に『シリコンバレー発 アルゴリズム革命の衝撃』(朝日新聞出版)などがある。https://www.kenjikushida.org/
――太田さんの出身はどちらでしょう?
東大阪です。その後、東大に入って、そのままプログラミングをしていたのですが、オープンソースにすごく興味を持っていました。パソコンにLinuxを入れたり、Linuxの日本語入力の改善をしたりするうちに、オープンソースのコミュニティでエンジニアの方々と関わるようになりました。その関連で「未踏」にも採用されました。
大学3年からコンピューターサイエンスの専攻に進んで、そこでPreferred Networksの西川徹さんや岡野原大輔さんと知り合いになりました。彼らは、前身となるPreferred Infrastructureを経営していて、私も手伝うことになりました。
そうしたら「CTOにならないか」と誘われて、当時6名のときに入社しました。当時はベンチャーキャピタルから出資を受けず、自分たちの資金で運営していました。
シリコンバレーでは全然違う経済とスケールが働いている
――Hadoop(大規模データの分散処理を支えるオープンソースのソフトウェアフレームワーク)にはどのような経緯で興味を持ちましたか?
修士1年生の時に、現在スーパーコンピュータ「京」のプロジェクトマネージャーもされている石川裕教授の研究室に在籍していました。そのとき教授の計らいで、アメリカのシカゴにあるアルゴンヌ国立研究所に客員研究員として行かせていただきました。
研究領域はHPC(High Performance Computing)、簡単に言うとスーパーコンピュータを作るというものだったのですが、巨大な計算機で巨大なデータを扱って、シミュレーションをするのは面白かったです。
私はすごく速い計算機を作りたいという欲求があったのですが、CPUはムーアの法則でどんどん速くなるけれど、ディスクのI/Oなど、データを扱うところはずっと変わらないままでした。そこで、データの処理をなんとかしようと考えたんです。
また、当時のスーパーコンピュータのシステムというのは、閉ざされていて、国の研究機関でしか使えないんです。ちょうどその時にHadoopが登場して、今後は分散コンピューティングの時代が来るなと思いました。
その後は本を書いたりHadoopユーザーグループを日本で立ち上げたりしました。ユーザーグループは最初は3人だけでしたが、その後に3000名にまで増えましたね。
――それはいつぐらいの話でしょう?
2008年から2009年ですね。その後、アメリカ企業のClouderaが、Hadoopを商用化するということで、その創業者と働く機会を得ました。そこからClouderaはたった3年で500名くらいの企業になったんです。
Photo: Michael Vi / Shutterstock
一方で、自分が所属していたPreferred Infrastructureでは5〜6年がんばってビジネスを増やしてやっと30-40名です。この違いを見せられて、全然違う経済とスケールがシリコンバレーで働いているなと思い、シリコンバレーでソフトウェア企業を起業したいと思ったんです。
最初、シリコンバレーでの資金調達は鳴かず飛ばず。日本人の先駆者のおかげで、起業の資金を得る
――Treasure Dataを共同で創業した芳川さんとはどこで知り合ったんですか?
創業前、芳川は三井物産で勤務しており、シリコンバレーでベンチャーキャピタリストとして投資をしていました。芳川はそのClouderaにも投資しようと考えていました。私はHadoopユーザーコミュニティの代表として、Clouderaを日本市場に展開する手伝いをしており、それが縁で一緒に働き始めました。2010年くらいの話です。
シリコンバレーのベンチャーキャピタルは、多くの場合、事業経験がある起業家が運営しています。芳川も一度スタートアップを作って、自ら事業をやりたいと考えていました。そして2011年の年末に日本で会ったときに「一緒にやろう」と本気で誘われたんです。
私もClouderaの爆発的成長も見ていたので、自分もやってみようという気になりました。それからピッチを作り、エンジェル投資家を見つけるために15回くらいシリコンバレーに行きましたね。
米国Palo Alto市(Photo: Lynn Yeh / Shutterstock)
起業のアイデアは、Hadoopグループユーザーコミュニティで得た知見です。3000人のユーザーがいるのですが、皆がデータ分析について3つの課題を抱えていました。
1つが、データ分析に時間がかかること。2つ目は設備で、当時はクラウドが一般的ではなかったので、ハードウェアやソフトウェア、ネットワーク機器を揃えるのに大規模な初期投資が必要でした。そして3つ目がコンピューターサイエンスを理解した人材のチームを雇用する必要があるということです。
この3つの課題を解決するために「Hadoopをベースにしたデータ分析の基盤をクラウドに置く」というアイデアを出し、ベンチャーキャピタルを回りました。当時クラウドはあまりメジャーではなかったので、投資家たちは「誰がクラウドにデータを預けるのか?」と懐疑的なコメントをしました。それから実はそのとき自分は英語をしゃべれなくて。鳴かず飛ばずでした。
しかし幸運だったのが、日本人起業家の先達がいたことです。吉川欣也さんや石黒邦宏さんといった日本人起業家がパイオニアとしてシリコンバレーで成功を収めていました。(編集部注:IP Infusionは、吉川氏と石黒氏が1999年に創業したIPネットワーク用のルーティングソフトウェア開発企業、2006年に株式会社ACCESSに58億円で売却)
そのIP Infusionに投資していたのが黒崎守峰さんとビル・タイさんで、一度日本人への投資に成功していたことと、これからはデータの時代が来るということで投資をしてもらったんです。
ビル・タイさんは有名なエンジェル投資家で、Zoomにも初期から投資しています。ビルさんからYahoo!創業者のジェリー・ヤンさんやHeroku、Wishの創業者など、12〜13人を紹介いただいて「ビルが投資するなら」ということで、全員投資を快諾していただきました。
Yahoo!創業者のJerry Yang氏(左)、Treasure Data共同創業者の芳川氏(中央)、太田氏(右)
――資金調達に成功した後、どういった人たちを集めましたか? 初期のチームについて教えてください。
芳川のほかに、もうひとり創業者の古橋貞之がいました。彼はバイナリシリアライズ形式の「MessagePack」、ログコレクタの「Fluentd」、バルクローダーの「Embulk」などのオープンソースプロジェクトを創始した、オープンソース界で有名なエンジニアです。
Mountain Viewオフィスにて。共同創業者の古橋氏(左)と太田氏(右)
当時の体制は、エンジニアリングは日本で行い、セールスやマーケティングはシリコンバレーで現地採用をしていました。日本のスタートアップというと、日本独特の商習慣にあわせたものを作って、日本市場で売るというのが多いですね。私たちにとっては「日本のエンジニアが、グローバル展開できるプロダクトを開発すること」も大事なミッションでした。日本のエンジニアリングの力を世界に見せたいという思いもあったんです。
――優れたエンジニアでかつ英語もできなければいけないわけですよね?
はい。私も英語が話せなかったので、芳川も古橋も1年くらいは毎朝2時間の英語のレッスンから1日が始まっていました。日本のエンジニアにとっては、英語を話すというところまでいくとハードルが上がってしまうので、最低限の読み書きができるといった基準で採用していましたね。
大企業の参入がきっかけでピボットを決意。これが売上100億円を突破したブレイクスルーだった
――創業から順調に拡大していったのでしょうか?
事業はずっと順調だったわけではなく、停滞していた時期もあります。最初は、何億円もするデータ分析のインフラを、月2000〜3000円から使えるというビジネスを始めました。
そして2012年くらいに、ZyngaやGREEなどソーシャルゲームの市場が盛り上がっていきました。ゲーム会社が注力していたのは、データ分析をして、いかにユーザーあたりの平均売上を伸ばすか。そこで、さまざまなゲーム会社に当社のサービスを利用していただけるようになりました。また、ゲーム会社はユーザーを獲得するためにオンライン広告を出しています。実はオンライン広告業界も大量のデータを持っているため、広告業界の顧客も獲得することができました。
しかしそんな中、私たちの事業が大きく揺らぐ出来事がありました。私たちの事業領域にAmazonやGoogleが参入してきたんです。超低価格で攻めてきて、市場環境が一変しました。スタートアップはインフラ面では巨大企業と勝負できません。彼らと価格競争しても仕方ないので、プロダクトにさまざまな価値を積み上げていくことにしました。
Photo: Eric Broder Van Dyke / Shutterstock
顧客に当社のサービスについてヒアリングしてみると、マーケティング部門が、顧客のデータ分析に使っていることがわかりました。そこで、顧客データにフォーカスしたデータ分析基盤を作ってマーケティング部門に売るといった形で、プロダクトと売り方をピボットしたんです。
現在私たちがTreasure Data CDP(カスタマーデータプラットフォーム)と呼んでいるものですが、そのサービスに変えてから、それまで年間10億円から20億円のビジネスが2〜3年で100億円まで伸びたんです。「顧客データを集めて、お客様のカスタマーエクスペリエンスを高めたい」というマーケターのニーズに合ったプロダクトを作れた。これが一番のブレイクスルーになりました。(後編に続く)
※本インタビューはWorld Innovation Lab (WiL)とのコラボレーション企画です。