巨大でありながら、最もアナログなレガシー市場として取り残されてきた「商業用保険」。日本と比べてかなり複雑な保険の評価システムを持つアメリカにおいて、引受審査(アンダーライティング)は不透明なプロセスと手作業に縛られた最大のボトルネックだった。
この数十兆円規模の市場に、既存システムへの継ぎ足しではない、完全な「AIネイティブ」の仕組みを引っ提げて殴り込みをかけたのが、米国のAIスタートアップHarper(ハーパー)だ。
「他社が敬遠する複雑なリスクこそ、私たちの最大の好機だ」
そう語る共同創業者兼CEOのDakotah Rice(ダコタ・ライス)氏に、毎月約2,000社近い新規顧客を獲得する圧倒的な成長の裏側と、それを支える「AIネイティブ」な組織の仕組み、今後の戦略について話を聞いた。
"リスクが高すぎて、他社が保険加入を断るような極めて複雑な企業。そうした「人間が逃げる」難解な案件こそ、私たちのAI処理能力が最大に発揮される主戦場なのです。"
——インタビューより引用
目次
・商業用保険のボトルネックとは
・他社が逃げる「複雑な案件」が主戦場
・「SaaSを売らない」という決断
・ベテラン保険営業の「頭脳」をエージェント化
・「日本の複雑な課題に効果発揮できる」
商業用保険のボトルネックとは
―アメリカの商業用保険市場が抱える、最大の課題は何でしょうか。
業界全体が「人間の経験値」と「極めてアナログな手作業」に依存し過ぎている点です。
私はよく、自分たちの仕事を「顧客の代理人となる弁護士」、そして保険会社を「裁判官」に例えます。複雑なビジネスのリスクを評価してもらうには、バラバラの情報を集め、裁判官である保険会社に対して「ストーリー」として提示しなければなりません。
しかし、アメリカの商業用保険市場は細分化されており、評価に必要な情報がすべて「非構造化データ」として散らばっています。従来のブローカーはこれを手作業で処理しており、これが手続きを劇的に遅くしていた元凶です。
―手作業の多さ以外に、ビジネス上の決定的なボトルネックはどこにありますか?
集めたデータを元に「適切な保険会社へ案件を振り分けること(Routing)」です。
私たちは1日に300件以上の新規案件を扱いますが、「この複雑な案件を、どの保険会社のどの担当者に持っていくべきか」、さらに「A社はこの原材料を使う企業は引き受けない」といった細かな除外条件までを把握するルーティング能力は、人間のベテラン営業が頭の中でやっていました。これをシステム化できていないことが最大のボトルネックでした。
「『複雑すぎる』『間に合わない』と断られた?それが私たちの得意分野です」と自信を見せる
Image: Harper HP
他社が逃げる「複雑な案件」が主戦場
―AIを核に設計されたハーパーは、既存のブローカーと比べて何が圧倒的に違うのですか?
圧倒的な「スピード」と「適正価格」です。本来なら数ヶ月かかる複雑な保険手続きを、通常2〜3日で完了させます。
私たちはこれまでに市場へ約5万件の案件を提出し、何百万もの価格データポイントを保有しているため、「本来どのくらいの価格になるべきか」の明確な知見から、顧客に最も有利な価格を提示できます。
―圧倒的な数字ですね!ターゲットとする業種も、一般的なインシュアテック企業とは異なると伺いました。
ええ。自分たちのことをインシュアテック企業ではなく、泥臭い「普通の保険ブローカー」だと思っています。私たちが狙うのは、自動化しやすい「単純なビジネス」ではありませんから。
例えば、「パン屋」を想像してください。単なる街のパン屋なら保険は簡単です。しかし、「全国に焼き菓子を製造・配送するパン屋」となれば話は別です。 全ての原材料、雇用慣行、建物の屋根の修繕履歴、配送車両の種類など、まるでジグソーパズルのように情報を集めなければなりません。
スクールバスの事業者、スポーツチーム、マリーナ(船舶係留場)——。リスクが高すぎて他社が保険加入を断るような極めて複雑な企業。そうした「人間が逃げる」難解な案件こそ、私たちのAI処理能力が最大に発揮される主戦場なのです。
「SaaSを売らない」という決断
―「AIをツールとして使う企業」と、ハーパーのような「AIネイティブ企業」の決定的な違いはどこにありますか。
個人の生産性を上げるか、会社のシステムそのものをAI前提に変えるかの違いです。
【AIツール活用 vs AIネイティブ(Harper)】
- AIツール活用: 既存のCRMを使い、通話の「文字起こし」だけをAI化。結局、人間がテキストをコピペし、手動で次の担当者へ回すボトルネックが残る。
- AIネイティブ: CRMをゼロから自作。通話が終わった瞬間、AIが内容を整理・判断し、優先順位をつけて自動で次のフェーズへ案件を移行させる。
―そこまで徹底したAIシステムを構築するのは、技術的にも困難が伴うのではないでしょうか。
その通りです。大規模なトークンコストの最適化やメモリシステムの信頼性確保など、私たちはAIインフラの最先端(Bleeding edge*)の課題と格闘しています。優秀な技術者を集め、人間とAIのワークフローをゼロから再定義する必要がありました。
実は当初、既存のブローカーにAIソフトウエアを売ろうと考えていました。しかし、彼らは「自分の仕事が奪われる」と恐れて使ってくれませんでした。それなら「自分たち自身がブローカーになろう」と決断したのです。
*Bleeding edge:ブリーディング・エッジ。非常に新しく、信用性のリスクが高いため、活用するのにコストを要する技術やコンセプト。
ベテラン保険営業の「頭脳」をエージェント化
―業務の大半をAIが自律的に行うなかで、人間の役割はどう再定義されるのでしょうか。
人間は作業者ではなく、システムの「レビュアー(監督者)」であり、「信頼関係の構築者」になります。
私たちは、人と人との関係性(Human Touch)を極めて重要視しています。最初のヒアリングや、ライセンスが必要な法的な提案は人間が行います。また、AIも完璧ではないため、ミスが起きた際は人間が介入し、その結果をエンジニアリングチームに戻して強化学習のループを回します。
これこそがAIネイティブ企業における人間の本質的な仕事です。
「日本の複雑な課題に効果発揮できる」
―日本市場におけるAIネイティブ保険モデルの可能性と、今後の展望を教えてください。
日本は労働力不足、営業職の高齢化、そして複雑な保険商品という、米国以上に深刻な課題を抱えています。だからこそ、私たちのモデルは絶大な効果を発揮するはずです。
将来的には国際的な保険ブローカーを目指していますが、その形は私たちが直接進出するだけでなく、日本の既存ブローカーや大手保険会社と提携し、私たちの技術をライセンス提供する形かもしれません。すでにDGDV*のような日本のトップ投資家が参画してくれており、非常に面白いシナジーを期待しています。
*DGDV:デジタルガレージと大和証券グループの合弁による独立系VC。正式名称はDG Daiwa Ventures。
―最後に、今後の短期的なマイルストーンと長期的なビジョンを教えてください。
短期的には、来年末までに100万社以上の顧客を獲得し、複雑な保険の絶対的スタンダードになることです。
しかし、長期的には保険だけに留まりません。長期的には、米国の地方や中小企業向けに、保険、コンプライアンス、給与計算、バンキングや資金管理までを一元管理できるビジネスのバックボーン、つまり基盤プラットフォームになることを目指しています。
スタートアップ向けの給与計算から始まってあらゆるバックオフィスを網羅したリップリング*(Rippling)のように、私たちは全米のビジネスの成長を支える最強のインフラを創り上げていきます。
*リップリング:人事、IT、経費管理などの従業員データを一元化するクラウドサービスを提供。Y Combinatorなどが出資し、2025年5月のシリーズGでは4億5,000万ドルを調達。評価額168億ドルを誇るユニコーン企業。