目次
・「スモールスタート戦略」の理由
・後発組のメリットを生かそう
・「暗闇」を経て、訪れた変化の瞬間
・いざ面会、返信率は驚異の6割超え
・スタートは切った。次のステップは?
「スモールスタート戦略」の理由
―シリコンバレー拠点を2024年4月に設立し、半年間で3件の協業案件を成立させました。1件目の協業案件は拠点設立からわずか4カ月後です。どのような戦略を意識していましたか。
杉野:意識したことは、「スモールスタート」です。小さくてもいいから目に見える成果を早く出すことを重視していました。その結果、まずミュージシャン向けAIツールなどを開発する米国スタートアップのTuneForte(チューンフォルテ)との協業が形となり、さらにアーティスト側の初期登録料が不要の音楽配信サービスをアフリカ市場で提供するAudiomack(オーディオマック、本社:米ニューヨーク)との協業開始も決定しました*。まだ未発表ですが、別のもう1社のスタートアップとも近く協業を開始する予定です。
*チューンフォルテとの協業は8月、オーディオマックとの協業は10月にそれぞれ発表した
―着任当初はどのようなプランだったのでしょう?
杉野:シリコンバレー着任当初は右も左も分からなかったので、とにかく500社とか1,000社とか、数多くのスタートアップに会い、そこから協業先を見つけるというプランを思い描いていました。
しかし、現地でお会いしたVCの方たちなどから「シリコンバレーでのヤマハのブランド価値を傷付ける。挨拶だけして相手に何も残さない"表敬訪問"はシリコンバレーでは御法度」と、かなり強くダメ出しされましたね。このアドバイスのおかげで軌道修正を図ることができましたが、当初予定していた動き方は取れなくなりました。
後発組のメリットを生かそう
―先ほどの「失敗談を学ぶ」とは、具体的にどのような方法で行ったのですか?
柴瀬:とにかく泥臭く、日本企業のCVCや現地VCなどに面会をお願いし、共有していただいた失敗例を学ぶことから始めました。数珠繋ぎの形で、ある方にお話しを伺っては、また別の方を紹介していただいて。私達はシリコンバレーでは後発組ですが、遅れて進出したことのメリットは失敗から学びを得られることだと思ったからです。
その中で印象的だったのは、事業開発は息が長い取り組みなので成果が見えるまで時間がかかり、「ずっと光の当たらない場所で仕事をしている感覚になる」という体験談です。だからこそ、本社サイドからのプレッシャーも感じてしまい、現地レポートを提出して体裁を保つといった苦労話はよく聞きました。
とても納得感があったと同時に、このままだと私達も同じ轍を踏むことになるという強い危機感を持ちました。中長期的に取り組む事業開発は一旦横に置いて、どんなに小さくてもいいからスタートアップと事を成し遂げたという実績を作ろうと大きく舵を切りました。
シリコンバレーのオフィスでスタートアップ情報を収集する柴瀬氏(ヤマハ・ミュージック・イノベーションズ提供)
―大きなターニングポイントですね。スモールスタートに戦略転換した後の最初のアクションは?
杉野:シリコンバレーに来てからやることではなかったのかもしれませんが、最初の2カ月間は自社の強みやアセットは何かを徹底的に自問自答する時間に充てました。なので4月、5月は柴瀬と会議室で缶詰めになり、足止め状態の歯がゆい期間でしたね。この2カ月間はほとんど英語を喋っていなくて、「俺たち、シリコンバレーにいるんだよね?」という状況でした(苦笑)
この期間は「自分たちが強みだと思っているものは本当に強みなのか、実は強みじゃないのでは」を行ったり来たりしながら、スタートアップ側にこちらから提供できる価値、自社のコアアセットとして打ち出すべき要素をひたすら煮詰めていきました。
「暗闇」を経て、訪れた変化の瞬間
―お2人が考える「ヤマハの強み」に変化はありましたか?
杉野:はい。ヤマハの楽器事業は電子ピアノなど世界で大きな市場シェアを獲得できている商品も多く、当初は漠然と「ナンバーワン楽器メーカー」という強みを打ち出そうと考えていました。しかし、これをどんどん因数分解していって、まず辿り着いたコアアセットが「Yamaha Music ID」という会員のデータ基盤です。
Yamaha Music IDは世界中で数百万人の会員データが蓄積されています。これを生かして、スタートアップ側には「会員の皆さんにあなたのサービスを紹介できます」と提案することができるわけです。単純な話に聞こえるかもしれませんが、この答えに辿り着いた時、自社の強みを価値あるアセットへと研ぎ澄ませられたと感じました。
これに加えて、グローバルな販路を確立していること、楽器だけじゃなくホームオーディオやライブハウスなどの業務用音響機器など「音」に関する技術・商品全般がそろっていること。今は、この大きな3点を売り込んでいます。
オフィスはイノベーションの中心地、米カリフォルニア州パロアルトに立地(同上)
いざ面会、返信率は驚異の6割超え
―「生みの苦しみ」とも言える2カ月間だったんですね。実際にスタートアップとの面会を始めた手応えは。
杉野:6月上旬から実際にスタートアップとの面会を始めていきました。驚いたのは、面会希望のメールを送った際の「打率」がすごく良かったことです。一説によると、5%から10%ぐらいの返信率とも言われるらしいのですが、今のところ6~7割は返信が来ています。コールドメール(面識のない相手に送るメール)に対して、「私はヤマハのファンで、昔からドラムを愛用しています」なんていう嬉しい言葉を交えた"ウォームリプライ"も多くて。
これは間違いなく、自社のコアアセットの見直しという作業をクリアしたからだと思っています。あの暗黒の時期とも思えた2カ月間の苦しみにも意味はあったんだと今は思います。準備不足のままやらずに済んだ「スタートアップ1000社訪問」も、今ならやる意味があるかもしれない。そのスタートラインにようやく立てた気がします。
―最初の協業事例となったチューンフォルテとの協業内容について教えてください。
杉野:チューンフォルテとの協業では、演奏動画の撮影用ブースに同社製のAI技術を活用したカメラを採用しました。より見応えのある演奏動画を撮れるようになりました。この撮影用ブースは、ロンドン中心部の欧州旗艦店に常設しているもので、「楽器を演奏している姿をSNSに投稿したい」という顧客の要望を受けて設置したものです。ここに「TuneCamera(チューンカメラ)」という機能を導入することで、楽器演奏中のズームやパンが自動で行われ、例えばギターの弦を押さえる手元がアップで映されるといった具合に、ミュージシャン受けする映像が撮れるようになりました。
例えば、ギター演奏者を撮影していると㊧、チューンカメラが自動的に手元をズームインしてくれる㊨(同上)
私はシリコンバレーの前はヨーロッパに赴任していたこともあり、このチューンカメラ導入は当時の同僚に「面白いカメラがある」と直接電話で相談する形で一晩でOKが出ました。欧州地域販社の社長など関係者4人くらいに承諾を取りましたが、全員その日のうちに返事をくれて、二つ返事で「やろう」と決まりました。導入のリスクが非常に小さく、成功すればプラスになるだけという説明を意識的に伝えたのは良かったと思っています。
また、これはやってみて気付いたことなんですが、ヨーロッパで先に導入事例を作ったことで、日本やシンガポール拠点でも導入を検討するという波及効果がありました。もし最初に日本で実証店舗をやろうとしていたら、稟議がスムーズに通ったと仮定しても早くて1カ月半はかかっていたかと思います。ヨーロッパでスピード感を持って先行事例を作れたことで、日本導入の心理的な障壁を下げるという副次的な効果につながってくれました。
ロンドン旗艦店に常設された撮影・試奏用ブース(同上)
スタートは切った。次のステップは?
―スモールスタートの成功事例に対する社内の反応はいかがでしたか。
杉野:小さくても成功であることに間違いないので、「おめでとう」とポジティブなリアクションをもらいました。また、クイックにアクションして成果を出すヤマハというアピールにもなるし、シリコンバレーに遅れてやって来た我々がスタートラインに立つための大事なスモールスタートだと伝えると納得感を持って理解してもらえました。
―次のステップはどう展開していくお考えですか。
杉野:より大きなことに取り組もうというより、「これは日本の本社に刺さるかも」「事業部が喜んでくれるかも」という仮説を立ててスタートアップを探し、それを提案していくフェーズに入っています。
ですので、日本サイドから漠然と「新しいこと」を求められるよりも、本社の事業部が何を目指していて、自社でできない領域はここだから、それを埋めてくれるスタートアップを探してきてくれという明確なオーダーを出してもらえることで歯車が上手く回っていくと思っています。そこを起点に中期的・長期的な大きなインパクトのある施策を目指したいですね。