※インタビューシリーズ「シリコンバレーから日本を考える」では、櫛田健児氏(スタンフォード大学ジャパン・プログラム リサーチスカラー)がシリコンバレーの企業・スペシャリストにインタビューし、日本の未来・可能性について掘り下げます。
<目次>
・一番大きな市場を取れるのは「グローバル企業向けのグローバルに使えるソリューション」
・ARMとのM&Aの舞台裏。なぜ買収を決断したか
・予想外だった会社統合の苦労
・今はまだ35歳。10年取り組めるテーマを見つけて、あと2、3周はチャレンジしたい
一番大きな市場を取れるのは「グローバル企業向けのグローバルに使えるソリューション」
――現在のお客さんは、米国の大企業が多いのですか?
日本とそれ以外が半々です。日本はそんなにマーケットが大きくありません。グローバルのSaaS企業を見ても、日本の売上は全体の10〜15%ぐらいですよね。ですから、私たちも日本でまず売上のベースを作って、そこから、アメリカとヨーロッパで事業を拡大していきました。
――プロダクトを日本のマーケットに最適化すると、グローバルマーケットから遠ざかってしまう傾向にあります。かつてはiモードも先行者でしたが、グローバルでエコシステムが作れず、スマホ時代になってApp Storeにディスラプトされました。日本のベンダーは、顧客のカスタマイズ要求に合わせて作るので、グローバル展開が難しいのでしょうか。
実は日本だけでなくアメリカも、大企業向けのカスタマイズは行われています。SalesforceでもServiceNowでも、サービスの作り方として、プラットホームを持っていて、その上にアプリケーションを載せて売っています。
たとえばDropboxやSlackなど、単価が低めのSaaSはカスタマイズしないで販売しますが、大企業向けのSaaSはセットアップに3〜6ヶ月かかり、ある程度カスタマイズして提供しています。
太田 一樹(Treasure Data 共同創業者 取締役)
1985年生まれ。東京大学大学院情報理工学研究科修士課程修了。学部課程在学中の2006年、自然言語処理と検索エンジンの開発を目的とした株式会社Preferred Infrastructure(プリファードインフラストラクチャ)に参画し、最高技術責任者となる。2011年に米シリコンバレーにてTreasure Dataを設立し、カスタマーデータプラットフォーム(CDP)サービス開始。CTOとして事業拡大を牽引。2018年にArmによる買収を経てArmデータビジネスユニット VP of Technologyを務めた後、現在はTreasure Data取締役。
聞き手:櫛田 健児(スタンフォード大学アジア太平洋研究所 Research Scholar)
1978年生まれ。スタンフォード大学で経済学、東アジア研究の学士修了、カリフォルニア大学バークレー校政治学部で博士号修得。2011年よりスタンフォード大学アジア太平洋研究所 Research Scholar。主な研究と活動のテーマはシリコンバレーのエコシステムとイノベーション、日本企業はどうすればグローバルに活躍できるのか、情報通信(IT) イノベーションなどで、学術論文や一般向け書籍を多数出版。おもな著書に『シリコンバレー発 アルゴリズム革命の衝撃』(朝日新聞出版)などがある。https://www.kenjikushida.org/
Treasure Dataの場合、6〜7割の顧客はプロダクトをそのままでも使えますが、残りの3〜4割はカスタマイズしたり、パートナーが個別開発して、顧客のニーズに合わせています。日本市場といっても、たとえばトヨタさんのようなグローバル企業は、グローバルで使えるプロダクトではないと採用しにくいですよね。
経費清算のクラウドサービスでも、何十ヶ国の法律や会計基準に全て対応しているソリューションがあればそれを選ぶのではないでしょうか。つまり、エンタープライズ向けのSaaS市場において一番規模を取れるのは、グローバル企業向けのグローバルに使えるソリューションなのです。
Treasure Dataも各国の要件に対応できるよう、データセンターは日本だけでなく、アメリカ、ヨーロッパ、韓国などにも置いています。たとえば、国によってはデータを国外に置けないところもあります。顧客データを管理しようという要求に対して、グローバルに対応できる企業となると数が絞られますので、競争力が高まるわけです。
ARMとのM&Aの舞台裏。なぜ買収を決断したか
――100億円規模の売上になって、組織の体制に変化はありましたか?
今は東京のエンジニアは3割くらいです。あとはシリコンバレー、ロンドン、ベトナム、バンクーバーがエンジニアリングのオフィスになっています。クラウドサービスを運営しているという特性上、24時間365日システムを走らせ続けなければいけないので、成長の過程で、グローバルでエンジニアを増やしていきました。
――開発体制がグローバルになる中で、コミュニケーションの課題は生じましたか?
もともと私自身がリモートで働くスタイルなので、リモートの開発体制に慣れている人じゃないと、一緒に働くのは難しいと考えていました。オープンソースのエンジニアは非同期コミュニケーションをベースにした開発体制に慣れています。
Photo: Andrey_Popov / Shutterstock
自分自身は英語にチャレンジがありましたが、スタッフやオフィスが増えても非同期コミュニケーションで大きな苦労はありませんでした。ただ、日本人はハイコンテクストで、1つの言葉の裏に、10の思いを感じ取ることができます。でも、日本人以外はその裏側の思いを汲み取ることは難しい。こういった文化の違いがグローバルエンジニアリングチームを作る際に一番苦労するところです。
――続いてM&Aの話をお聞きしたいのですが、どのような経緯でM&Aに至ったのでしょうか。
売上が増えて、資金調達をしていると、買収の提案も舞い込んできます。売る気はさらさらなかったのですが、提案自体は受け取るようにしていました。買収の評価額によっては、資金調達で有利になる場合があるからです。
そして、M&Aの1年前くらいにARMホールディングスCEOのサイモン・シガースさんとランチをしたことはありましたが、そのときは情報交換レベルで終わりました。ARMは半導体チップの設計図を売る会社ですが、ARMのチップが世界中にどんどん配られた先には、そこで動くソフトウェアでマネタイズをするという構想を描いていて、データ関連の企業を買収しようと動いていたのです。その後、孫正義さんとサイモンさんから買収金額を提示されて、M&Aを決断しました。
Photo: glen photo / Shutterstock
理由は3つあり、1つはデータソースです。Treasure Dataは、ブラウザやメール、広告のクリックなど、デジタルのデータを集めて分析をしてきました。今後はIoTなどでリアルのデータソースもとって分析していかなければと思っており、ARMのチップならどんどんデータを取れると思ったからです。2つめは金額。3つ目はカルチャーで、ARMはテクノロジー企業に珍しく、勤続年数が長い会社ですので、従業員をうまくケアしてくれると感じました。
予想外だった会社統合の苦労
――日本人がシリコンバレーで起業して、巨大M&Aまで実現したといったストーリーは珍しいですね。M&A後のインテグレーションについてはどうでしたか。
M&A後はバックオフィスの統合が大変でした。苦労したのは、会計やコンプライアンス、そして人事制度を合わせる部分です。ARMの報酬制度に則り、全社員250人の報酬のランク付けをしたんですが、絶対的な物差しがなく、本当に難しいと感じましたね。
異なる企業を統合するわけですから、売る側も買う側も簡単ではないということがよくわかりました。バックオフィスの統合に時間がかかり、ビジネスを統合するまでに6ヶ月以上かかりました。
買収後のパーティ。Treasure Data芳川氏・太田氏・古橋氏・Dan氏と、投資家メンバーでの一枚
――買収しても統合するかしないかは企業によって戦略が異なります。なかには買収してもそのままという戦略をとる場合もあります。Treasure Dataは順調に統合できたのでしょうか?
バックオフィスの統合はかなり大変でしたが、ビジネスはかなり自由にやらせてもらっています。ソフトバンクグループは、エンジニアリングカルチャーというよりも営業が強いイメージですね。
ですから、日本のソフトバンクが、私たちのプロダクトをどんどん売ってくれたのはすごく良かったです。結果的に業績面ではArmならびにソフトバンクグループの力を借り、大きく成長させていただきました。
Arm社買収直後、Arm社のメンバーとケンブリッジにて食事会
―ARMがNVIDIAに買収される場合は、Treasure Dataはどうなるのでしょうか。
NVIDIAのARM買収はさまざまな国の承認が必要で、まだ決まっていませんが、NVIDIAが欲しいのはARMのハードウェア部門だけで、Treasure Dataのようなソフトウェア部門は買収の対象外なのです。ですから別のアセットとして独立をして、その先どうするかという舵取りをしはじめた状況です。
今は35歳。10年取り組めるテーマを見つけて、あと2、3周はチャレンジしたい
――今後もシリコンバレーに住んで活動されるのでしょうか?
今35歳なので、あと2、3周は何かにチャレンジしたいと思っています。次の10年、20年で取り組めるテーマが見つかったら起業したいですね。
これまで9年間がむしゃらに働いてきたので、今はゆっくりさせてもらいつつ、新しいことにも取り組んでいます。たとえば、スタートアップにアドバイスしたり、エンジェル投資したり、ファンドに出資したりです。
日本人は好きだけど、日本の未来に対しては楽観視していません。もっと外貨を稼げる人を増やさないといけないと思い、グローバルに活躍できる起業家をサポートしています。
Photo: ventdusud / Shutterstock
―日本の起業家のシリコンバレー参入ハードルを下げることも、私のライフワークのひとつです。日本の起業家が育つメカニズムを作りたいですね。
野球では、野茂英雄投手が先陣を切って活躍し、日本人メジャーリーガーが増えましたよね。シリコンバレーの日本人起業家にとっては、IP Infusionを起業した吉川さんと石黒さんは、まさに野茂のような存在です。
自分たちはすごく幸運で、いろいろな人やタイミングに恵まれたと思いますが、失敗もたくさんしてきました。「こうすれば成功する」という方法は教えられませんが、失敗談は語れます。失敗を共有しておくことで、スタートアップ経営の苦労を何年もショートカットできるかもしれません。今後は私の知見や失敗経験を、次の世代の起業家たちにも共有していきたいと思っています。