世界の保険業界はいま、大きな矛盾に直面している。顧客はアマゾンのようなシームレスな体験を求める一方で、その裏側を支えるのは数十年前に構築された複雑怪奇な「レガシーシステム」だ。この基盤を入れ替えるには、膨大なコストと数年の歳月が必要となり、多くの企業がDXの足踏みを余儀なくされている。
「既存のシステムを壊す必要はない。その上に、自律して動く『AIエージェント』を走らせればいいのだ」
そう断言するのは、保険・金融特化型のAIプラットフォームを展開するLiberate(リベレイト、本社:カリフォルニア州パロアルト)のCEO、アムリーシュ・シン(Amrish Singh)氏。同社が提供するのは、単に言葉を返すだけのチャットボットではない。保険の専門知識を備え、既存のシステムと連携して実際に事務処理を完結させる「実行型AI」だ。
かつて日本でのプロジェクトで「グッドデザイン賞」を受賞した経歴を持ち、日本の顧客が求めるサービスの質をよく知るシン氏。5,000万ドルの資金調達を経て、人間とAIが共生する「AIファースト」な金融機関の実現へと突き進む同氏に、レガシーを資産に変える戦略を聞いた。
目次
・東京海上との協業が原点。保険業界の課題解決に向け起業
・単なるチャットボットではない、「実行型」AIエージェント
・競合は「他社」ではなく「内製」──2年先行するドメイン知識
・未来図:20人の社員と数万のAIが支える「100億ドル企業」
・日本企業3社と協議開始。共創パートナーを求む
東京海上との協業が原点。保険業界の課題解決に向け起業
―まず、ご自身のキャリアと創業の経緯について教えてください。
私はキャリアを通じて一貫してエンタープライズ・ソフトウエアの開発に携わってきました。SAPのような大企業でソフトウェア構築を担い、その後は経営コンサルティングの立場で、保険会社への大規模なソフトウェア導入を支援してきました。
リベレイトを創業する直前には、テクノロジー主導の自動車保険会社であるメトロマイル(Metromile)でGMを務めていました。同社の主要投資家が東京海上日動火災であった縁で、私は日本で彼らと数年にわたり密接に仕事をすることになったのです。
特に、日本の東京海上の顧客向けに「デジタル事故報告システム」を導入したプロジェクトは、私にとって大きな転機となりました。この取り組みで日本政府から「グッドデザイン賞」をいただいたことは、今でも誇りに思っています。
この経験から学んだのは、日本の顧客がいかに「カスタマーサービスの価値」を重んじているか、そして日本企業がいかに顧客を大切にしているかということです。私は保険業界を愛していますし、テクノロジーとビジネスの両面で積んできた経験から、この業界にはテクノロジーで解決すべき巨大な課題があると感じ、2020年にリベレイトを立ち上げました。
―保険業界のどのような課題が、創業のきっかけになったのでしょうか。
今、世界の保険業界では人件費を含むコストが急騰しており、事務や管理などの「手作業」に年間約3,000億ドルもの巨額が投じられています。しかし、それだけのコストをかけてもなお、深刻な「人材不足」によって業務が回らなくなっているのが現状です。
例えば、米国ではコールセンターの人員確保が極めて困難です。日本でも同様の課題があるでしょう。台風が発生すれば、保険会社や金融機関には膨大な数の問い合わせが殺到しますが、それらすべてに人間が即座に対応するのは不可能です。
リベレイトは、この課題を解決するために、顧客と直接対話する「AIエージェント」を開発しました。私たちのAIは、電話やメール、SMSを通じて、まるで人間のように自然な言語で応答します。
しかし、単に「答える」だけではありません。私たちのAIエージェントが画期的なのは、保険会社の基幹システムに深く入り込み、契約の販売や情報の受け付け、そして実際のトランザクション(業務処理)までを完結させる点にあります。
もし日本で台風が発生した際、すべての顧客が待たされることなく、流暢な日本語を話すAIエージェントから即座に、そして完璧なサポートを受けられる──そんな世界を私たちは作ろうとしています。
単なるチャットボットではない、「実行型」AIエージェント
―御社の製品について、具体的にどのような価値を提供しているのか教えてください。
一言で言えば、私たちは「電話に応答し、保険の販売やカスタマーサービス、保険金請求の受付を自律的に行うデジタルAIエージェント」を提供しています。
このAIエージェントの最大の特徴は、人間と見まがうほど自然な言葉で対話できることです。英語やスペイン語はもちろん、日本語も極めて流暢に操り、顧客の意図を正確に理解します。さらに重要なのは、単に対話するだけでなく、バックエンドの基幹システムに直接アクセスし、実際に業務処理(トランザクション)を実行できる点にあります。
例えば、私たちの顧客である大手レンタカー会社の事例を紹介しましょう。これまでは、事故に遭った顧客がロードサービスを求めて電話をかけると、コールセンターに繋がるまで長い時間待たされるのが常でした。しかし現在は、私たちのAIが即座に電話を受けます。待ち時間はゼロです。顧客は自然な音声でサポートを受け、迅速にトラブルを解決できるようになりました。
顧客にとっては「待たされない」という最高の体験を、金融機関にとっては「運用コストの削減」と「サービス品質の向上」を同時にもたらします。AIの力を使えば、言語の壁さえも消滅します。あなたが日本語で、私が英語で話していても、AIがその間を流暢に取り持ち、混乱なく意思疎通ができるのです。
―その音声AIは独自開発ですか。生成AI特有の「ハルシネーション(幻覚)」にはどう対処していますか。
私たちは、OpenAIやGoogle Gemini、Anthropicといった大手の基盤モデルを活用しつつ、その上に保険業界特有の深い知識を学習させた独自のモデルを構築しています。いわば、最新の「脳」に専門家の「知識」を詰め込んだ状態です。これにより、保険特有の複雑なプロセスを熟知したエージェントを、最短6週間という短期間で現場に投入することが可能になります。
ハルシネーションは、保険や銀行といった規制の厳しい業界でAIを導入する際の最大の障壁です。汎用モデルをそのまま業務に使うことはできません。リベレイトが存在する意義は、まさにこの問題を解決し、高度なコンプライアンスとセキュリティを備えた「監査可能な会話」を実現することにあります。
私たちはAIに厳格な「ガードレール」を設定し、保険業務に関連する対話以外は行わないよう特化させています。AIエージェントに政治的な助言を求めても答えませんし、勝手に100ドル送金するようなこともありません。保険ビジネスに求められるタスクだけを正確に実行する──この特化型のファインチューニングこそが、私たちのコアバリューなのです。
―エンドユーザーの反応はいかがですか。AIに拒否感を持つ人もいるのでは?
調査の結果、95%以上のユーザーからポジティブな評価を得ています。最大の理由は、消費者が「列に並んで待たされる」ことよりも「即座に助けてもらえること」を圧倒的に支持しているからです。
また、私たちは顧客に「選択肢」を与えています。AIとの対話を試すこともできれば、従来通り人間のスタッフを指名することもできる。強制しないからこそ、AIを選んだ顧客は、そのスピードと利便性に高い満足感を覚えるのです。
今や人々は、InstagramやChatGPTといった日常的なアプリを通じて高度なAI体験に慣れ親しんでいます。銀行や保険会社に対しても、同等のデジタリティを期待するのは当然の流れと言えるでしょう。
―収益モデルや導入までのスピード感についても教えてください。
収益モデルは、処理したリクエスト件数や通話時間に応じた「使用量ベース(従量課金)」を採用しています。私たちのコストの大部分を占めるコンピューティングリソースやAIの計算コストも使用量に連動するため、顧客にとっても透明性の高い合理的な仕組みです。
特筆すべきは、導入企業が平均して260%以上のROI(投資対効果)を達成している点です。人間よりも低コストで、かつ24時間365日、高品質なサービスを提供し続けることができるからです。
現在、世界中から非常に高い需要をいただいており、最大の制約はコンピューティングリソース(チップ)の確保にあるほどです。通常、プロジェクト開始までに約2カ月、そこから稼働までに約6週間を要します。
私たちは米カリフォルニア州パロアルトに拠点を置く企業ですが、グローバル展開においては現地のパートナーシップを重視しています。日本市場においても、日本語サポートや導入支援を行う現地のサービスプロバイダーと提携することで、日本独自のニーズに寄り添った展開を進めています。
Image : Liberate HP
競合は「他社」ではなく「内製」──2年先行するドメイン知識
―保険や銀行セクターでAI音声エージェントを提供する企業は他にもありますが、他社との決定的な違いは何でしょうか。
私たちの最大の強みは、創業メンバー全員が保険業界出身であり、自ら保険事業を運営してきた「ドメイン知識」にあります。保険ビジネスの真の課題を骨の髄まで理解しているという点で、他の主要なテクノロジー企業よりも「2年は先行している」と自負しています。
実は、現在の私たちの最大の競合は、他社スタートアップではなく「大手保険会社や銀行が自社でAIを構築しようとすること」そのものです。
多くの企業がAIのメリットを理解し、人材不足を解決しようと内製を試みますが、そこで私たちが提供する差別化要素は明確です。第1に、月間180万件もの自動化を実行している「圧倒的なスケールと標準化」。第2に、保険・金融領域だけに絞り込み、独自の強化学習モデルを開発している「専門性」です。
私たちは、ヘルスケアや旅行、公共事業など専門外の領域には一切手を出しません。金融サービス、特に保険という狭い領域において「世界最高」であることを追求しています。この深い業界特化こそが、自社開発では到達できない高度なAIモデルと、実務に即したビジネスプロセスの再構築を可能にするのです。
未来図:20人の社員と数万のAIが支える「100億ドル企業」
―2025年10月にはバッテリー・ベンチャーズ(Battery Ventures)が主導したシリーズBで5,000万ドルを調達されました*。この資金の使い道と、シンさんが見据える「保険業務の未来」について教えてください。
調達資金のほぼ全てを、R&D(研究開発)に投入します。私たちのビジョンは、金融サービス企業のための「AIオペレーティング・プラットフォーム」になることです。
現在、金融機関は「人間」をオペレーションの基盤(プラットフォーム)として動いています。しかし、未来の金融機関では、AIと人間が協働する形へと進化するでしょう。人間は監督やイノベーション、顧客との深い関係構築を担い、AIが膨大な定型業務を解決する──リベレイトは、その新しい時代の「OS」になりたいと考えています。
私が描く長期的なビジョンは、従業員はわずか20人だが、背後で数万のAIエージェントが稼働し、100億ドル規模の価値を生み出すような金融サービス企業が誕生することです。その心臓部を担うのが、リベレイトのテクノロジーでありたいと考えます。
調達額とラウンド:2025年10月、シリーズBラウンドで5,000万ドルを調達。累計調達額は7,200万ドルに。
主な投資家:リード投資家はバッテリー・ベンチャーズ。新規投資家のキャナピ・ベンチャーズ(Canapi Ventures)、既存投資家のレッドポイント・ベンチャーズ(Redpoint Ventures)などが参加。
取締役の就任:今回の増資に伴い、バッテリー・ベンチャーズのゼネラルパートナーで、保険ソフトウエア大手ガイドワイア・ソフトウエア(Guidewire Software)の共同創業者でもあるマーカス・リュウ(Marcus Ryu)氏が取締役に就任。
Image : Liberate
―その壮大なビジョンを実現する上で、最大の障壁は何でしょうか。
主に3つの課題があります。1つは「社会の受容性」です。AIと人間が共に働く世界を社会が受け入れ、企業内の変革管理がうまく機能する必要があります。2つ目は「データの蓄積」です。月間180万件の対話をさらに増やし、モデルを磨き続けるための良質なデータが必要です。
そして3つ目は、チップ(半導体)や基盤モデル、ソフトウエアのエコシステム全体の進化に依存しているという「サプライチェーン」の課題です。
これら、顧客への教育、AIモデルの高度化、そして技術インフラの安定。この3つが揃ったとき、私たちの成功は確実なものになると確信しています。
日本企業3社と協議開始。共創パートナーを求む
―日本市場への本格参入にあたり、どのようなパートナーシップを求めていますか。出資やJV(ジョイントベンチャー)、販売代理、SI(システムインテグレーター)など、さまざまな形があると思いますが。
非常に重要な質問です。私はかつて3年間、日本企業と密接に協業した経験から、日本の消費者がどれほど高い品質のサービスを求め、企業に対して深い信頼を寄せているかを肌で知っています。この「優れたカスタマーサービス」を重んじる文化は、日本のビジネスの根幹にあるものです。
だからこそ、私たちは日本で成功するために何が必要かを理解しています。現在、JV、販売代理店、そしてシステムインテグレーターという3つの形態において、パートナーシップを積極的に求めています。私たちのテクノロジーを日本の金融機関に届け、その価値を共に最大化できるパートナーが必要です。
実は現在、すでに日本の多国籍企業3社と非常に真剣かつ活発な協議を進めています。彼らは、このテクノロジーがもたらす価値を深く理解してくれています。
―最後に、日本の金融機関や潜在的なパートナーに向けてメッセージをお願いします。
私たちが日本市場への拡大を望んでいるのは、単なるビジネスチャンスだからではありません。日本の皆さんが大切にされている「高品質なカスタマーサービス」という価値観は、まさにリベレイトがテクノロジーで守り、高めようとしているものと完全に一致しているからです。
人材不足やコスト増大という課題に対し、AIと人間が協働することはもはや避けられない未来です。もし私たちのビジョンに共感していただけるなら、ぜひ私に直接連絡をください。共にパートナーシップを築き、日本の顧客に対して責任ある価値を提供していきたいと考えています。
次に台風が日本を襲ったとき、すべての顧客が待ち時間ゼロで、流暢な日本語を話すAIエージェントから即座に助けを得られる──。そんな「誰も取り残さない」未来を、日本の皆さんと共に実現できることを楽しみにしています。