スマートフォンのカメラは、センサーやレンズの小型化という物理的制約を抱えながら、どこまで高品質な撮影体験を提供できるのか──。この課題に対し、AIによるまったく新しい画像処理アプローチで挑んでいるのが、シリコンバレー発のスタートアップグラス・イメージング(Glass Imaging、本社:米国カリフォルニア州)だ。同社の共同創業者でCEOのジブ・アタ―ル(Ziv Attar)氏は、アップル在籍時にポートレートモードの開発を主導したことで知られ、画像処理の革新に長年取り組んできた。そんな彼が率いるグラス・イメージングは、従来の画像信号処理(ISP)をAIに置き換える「ニュートラルISP(GLASS AI)」を開発。光学とAIを融合することで、スマートフォンやARグラスといった次世代デバイスに新たな可能性をもたらしている。アタ―ル氏に、創業の背景から技術開発の哲学、そして今後の展望について話を聞いた。

目次
創業した会社をアップルが買収
iPhoneの「ポートレートモード」搭載に貢献
「パーツの個性を学習するAI」の凄いところ
ヨドバシカメラで感じた「カメラだらけの世界」
スマートフォンから世界展開へ―ARグラス、ドローンにも

創業した会社をアップルが買収

 アタ―ル氏が画像技術の道を歩み始めたのは、1990年代後半の大学時代にさかのぼる。「当時から光学や画像処理、光学設計アルゴリズムに取り組んでいました。最近では、コンピュータービジョンや機械学習といった高度な応用にも携わっています」と振り返る。その原点には、幼い頃からの写真への強い憧れがあったという。

「小さな頃から光やレーザー、カメラに興味がありました。父がカメラを持っていて、とても羨ましかったのを覚えています。ある日、父が比較的手頃な価格の固定レンズのオリンパス製カメラを買ってくれたんです。それ以来、写真や動画撮影に夢中になりました」

 大学では光工学を専攻し、卒業後はイスラエルの大手防衛企業で光学設計や画像アルゴリズムの開発に従事。その後、独立してコンサルティング会社を立ち上げ、他社の画像システム設計にも携わった。このコンサル業を通じてスタートアップの世界に触れたアタ―ル氏は、2011年にリンクス・イメージング(LinX Imaging)を創業。マルチカメラや多レンズシステム、アレイカメラといった先進的な技術を開発し、グーグルや自動車メーカー、センサーメーカーなどと提携を広げていった。

iPhoneの「ポートレートモード」搭載に貢献

 そして2015年、人生を大きく変える出来事が起きる。アップルによるリンクスの買収だ。

「アップルが会社を買収し、私たちの技術チームはアップルの一員となりました。拠点もカリフォルニアに移り、本社で働くことになったんです」。アップルで最初に手がけたのは、リンクス時代に開発していたポートレートモード(被写体を際立たせる撮影モード)をiPhoneに組み込むプロジェクトだった。

「大変でしたが、とても楽しかったですね。そして1年後の2016年9月、デュアルカメラを初めて搭載したiPhone 7 Plusが発売され、これにポートレートモードも初めて実装されました」。その後もアタ―ル氏のチームは、背景の奥行き情報を基にライティングを自動調整する「ポートレートライティング」などの機能開発をリード。これらの技術は翌年のiPhoneにも採用された。

 順調にキャリアを重ねていたアタ―ル氏だが、2019年にアップルを離れる決断をする。「アップルのような大企業では、毎年iPhoneやiPadを出荷することが最優先です。でも私は、もっと速く動き、大きなチャレンジに挑み、自分自身で方向性を決めたいと思いました」

 退社当時、彼の頭の中にはすでに次の一手が浮かんでいた。「AI、そしてエッジでのAI処理は、次世代デバイスにとって非常に強力で意味のあるものになるだろうという確信がありました」。

 ただし、アタ―ル氏のAIに対するアプローチは、よくある「補助的な使い方」とは一線を画していた。「ノイズ除去やシャープ化といった改善にAIを使うのは確かに有効ですが、私の本当の狙いは『AIなしには作れないハードウエアを、AIの力で実現する』というものでした」。この独自のビジョンを形にするため、アップル時代の同僚でありイメージアルゴリズムの専門家だった、現CTOのトム・ビショップ(Tom Bishop)氏と共に、グラス・イメージングを立ち上げた。

Ziv Attar
Founder & CEO
イスラエル工科大学(Israel Institute of Technology)で光学を専攻。イスラエルの防衛企業ラファエル・アドバンスド・ディフェンス・システムズ(RAFAEL)で光学エンジニアとして従事し、オペラ・オプティクス(Opera Optics)でCEOを務めた後、リンクス・イメージングを創業。アップルが2015年にリンクスを買収したため、アップルの一員としてiPhone向けのポートレートモードの開発プロジェクトなどを牽引した。2019年にグラス・イメージングを創業し、CEOに就任。

「パーツの個性を学習するAI」の凄いところ

 グラス・イメージングが開発した中核技術「Neural ISP(GLASS AI)」の最大の特長は、カメラごとに専用のAIモデルを構築するという点にある。従来の画像信号処理(ISP)とはアプローチがまったく異なる。

「私たちは汎用的なソリューションを提供しているわけではありません。特定のカメラごとに専用のニューラルネットワークを訓練するシステムを構築しています。なぜなら、すべてのカメラにはそれぞれ異なる問題があるからです。あらゆるカメラに対応する1つの汎用モデルも理論上は可能かもしれませんが、画質面では最適とは言えません」とアタ―ル氏は語る。

 実際、アップルやサムスンのような大企業でも、新しいスマートフォンが発売されるたびに、1,000人規模のチームが数カ月かけてカメラのチューニングを行っているという。「その1,000人が何カ月もかけて行う作業を、コンピューターが一晩で自動的にやる。そうした仕組みが必要だと考えました」

 グラス・イメージングのシステムは、カメラを専用ラボに入れるだけで、その機種に特有の色収差やノイズ、ボケなどの特性をAIが自動で学習。最適な補正方法を導き出す。「カメラをラボに入れてドアを閉め、翌日に戻ってくると学習の準備が整っています。そこから1〜2日でAIモデルの訓練が完了します。人の手はほとんど介さず、すべてがコンピューターによる自動処理です」

 この仕組みは、センサーの画素特性やレンズの光学収差、回路基板に起因するノイズパターンなど、カメラを構成する各部品の「個性」を逆算的に学習し、それに最適化された補正処理をAIが生成するというもの。従来のような一律の補正ではなく、そのカメラだけのために設計された画像処理エンジンを構築することができる。

 こうした独自性について、アタ―ル氏は他社の手法と対比しながら説明する。

「他の企業は、汎用的なAIモデルを動かして画像を確認し、気になる部分があれば個別に調整を加える、というやり方です。例えば、写真の端に緑色のにじみがあれば、『じゃあ端だけ色を消そう』といった具合に。その結果、パッチの上にさらにパッチを重ねるような処理になってしまう」

 一方、グラス・イメージングはそのような「継ぎはぎ」ではない。

「私たちは、あるレンズに最適に機能する『ひとつのモデル』を作ります。それだけで済むのです。これが、他社とはまったく異なるアプローチです」

 この方式により、従来は画像を全体的にシャープに見せるような単純処理しかできなかったところを、個々のカメラで生じるレンズ収差まで正確に補正できる段階にまで進化させたのだ。

image : グラス・イメージング HP 生データと「GLASS AI」を用いた際の差異

ヨドバシカメラで感じた「カメラだらけの世界」

 グラス・イメージングが描くビジョンは、スマートフォンだけにとどまらない。創業者のアタ―ル氏は、東京・秋葉原のヨドバシカメラを訪れた際、ある気づきを得たという。

「この建物の中に、今いったい何台のカメラがあるんだろう──そんなことを考えていました。ロボット掃除機にも、冷蔵庫にも、あらゆる製品にカメラが搭載されていますよね」

 今やカメラは、スマートフォンだけでなく、生活のあらゆる場面に組み込まれている。とはいえ、スマートフォンの世界でもまだ改善の余地は大きいとアタ―ル氏は言う。

「iPhoneのカメラが持つ本来の性能を100%とすると、アップルはそのうちの50%程度しか引き出せていないと思います。私たちの技術なら、それを90%近くまで引き上げることが可能です」

 スマートフォンでさえ半分の能力しか発揮できていないという状況だが、アタ―ル氏はさらにその先を見据えている。真の成長機会は、スマートフォン以外のデバイスにあると考えているのだ。「防犯カメラやドローンなどでは、その性能をほとんど生かせていないケースが多い。中には10%、あるいは5%しか引き出せていないものもあります。見た目のスペックは良さそうでも、実際に撮れる映像はそれほどでもない──そんな製品がたくさんあります」

「例えば、サムスンやアップル、ファーウェイ(華為)、シャオミ(小米)といった大手スマートフォンメーカーには、数百人から数千人規模のカメラ開発チームがいます。一方で、防犯カメラやドローンを手がけるメーカーは、たとえ大企業でも通常は1〜10人規模のチームしか持っていません。1,000人のエンジニアを抱えるなんて到底不可能です」

 結果として、優れたハードウエアを備えていても、それを最大限活かす術を持たない製品が数多く存在する。グラス・イメージングのAIは、そうした「眠れるカメラ」に潜在能力を発揮させる鍵になるのだ。

スマートフォンから世界展開へ―ARグラス、ドローンにも

 グラス・イメージングは2025年6月、インサイト・パートナーズ(Insight Partners)が主導したシリーズAラウンドで2,000万米ドルを調達したと発表した。同社はこの調達資金を元に、本格的な市場展開に乗り出す。アタ―ル氏によると、「今年中に一部のスマートフォンに搭載されて出荷を開始し、市場に出た段階で正式に発表する予定です」という。

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 なぜスマートフォンから始めるのか?それは、誰もが日常的に使うデバイスであり、同時に非常に高性能なAIチップを搭載しているからだ。「今や多くの人が一眼レフを持ち歩かなくなっています。私自身も旅行では使いますが、普段は完全にスマートフォン頼りです。スマホのAIアクセラレーターは非常に強力で、私たちの技術との相性も良いのです」

 一方で、スマートフォン以外の製品にも変化が起きつつある。

「近年は高性能なAI処理能力を備えた防犯カメラなども登場しています。現在は高価格帯の製品に限られますが、5〜10年後には、20ドル程度のカメラでさえニューラルネットワークを活用できるようになるでしょう」

 こうした潮流を見据え、グラス・イメージングは今後、複数の新たな領域への進出を計画している。まずは、ARグラスがターゲットの1つだ。クアルコムとのパートナーシップを活用し、ARチップ向けの製品開発も進めている。

 さらに、ドローンにも注力する方針だ。「ハードウエア構成の面で見ると、ドローンのカメラやセンサー、チップセットはスマートフォンと非常に似ています。私たちは可視光カメラによるHDR処理や超解像、さらには熱画像カメラの高解像度化やノイズ除去技術も提供する予定です」

 そして、日本市場も重要な戦略地域と位置づける。

「世界にある優れたカメラ技術のほとんどは日本から生まれました。ドイツのライカを除けば、主なプレイヤーは多くが日本企業です」とアタ―ル氏は語り、日本企業との連携に期待を寄せる。

「製品にカメラを搭載しているすべてのメーカーに伝えたい。もしその製品の性能を最大限に引き出したいなら、あるいはより小型で安価なデバイスを目指したいなら、ぜひ私たちに声をかけてください」

 グラス・イメージングの技術は、スマートフォンだけでなく、あらゆるカメラ搭載デバイスに応用できる。例えば、ディスプレイの下に埋め込まれたアンダーディスプレイカメラ(UDC)など、業界が諦めかけていた領域にも光を当てる。「通常のカメラと同等の画質をUDCで実現する技術もすでにあります。業界が諦めた問題にも、私たちは答えを持っています」

 加えて、建設業界や産業分野での活用も視野に入れている。「高層ビルや水中構造物を点検するドローンが、コンクリートや金属のひび割れを検出できない場面があります。そこでも、私たちの技術は必要とされるでしょう」

 高解像度が求められる一方で、大型・高価なカメラを導入できない──そんなジレンマを抱える世界中の企業こそ、グラス・イメージングが支援すべき相手だ。

 アタ―ル氏の目標は、極めてシンプルかつ壮大だ。

「3〜4年以内に、地球上のすべての人が、少なくとも一つは私たちの技術を搭載した製品を使っている──そんな未来を実現したいのです」

 幼い頃に抱いた光や写真への情熱が、iPhoneの革新を生み、そして今、グラス・イメージングを通じて次のフェーズへ進もうとしている。アタ―ル氏の挑戦は、世界中の“眠れるカメラ”に専用AIという命を吹き込み、デバイスの潜在能力を最大限に引き出す新たな技術革命の始まりにほかならない。

image : グラス・イメージング HP



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