※後編はこちらから。
「これは大発見」 緑内障の点眼薬開発へ
久能氏は1982年、京都大学大学院工学系研究科で工学博士号を取得。ドイツのミュンヘン工科大学での研究員生活を経て、1980年代に株式会社アールテック・ウエノを上野隆司氏と共同創業した。基礎研究、開発研究、製造、承認申請に関わり、1994年には、初めてのプロストン系緑内障治療薬となる「レスキュラ点眼液」の商品化に成功した。
――研究者から創薬、ビジネスの世界へ至ったきっかけを教えてください。
1980年代中ごろから後半にかけての話になります。学位を取ってドイツ留学から帰っていよいよ研究生活をスタートしようかという時に、ちょうど現在の科学技術振興機構(JST)大型基礎研究プログラム「ERATO」が始まりました。当時、日本は応用は上手だけれど基礎研究ができていない、「ゼロからイチ」を作ることがなかなかできない、という課題が挙げられていました。当時の科学技術庁が資金を出す5年間の計画があり、そこで早石修先生(京都大学名誉教授)が立ち上げたプロジェクトに参加することになりました。
その時に出会った上野隆司さんと、その後30年近く一緒に研究を行ったり、ビジネスに取り組んだりすることになりました。当時、研究していた「プロストン」という物質があり、それが今まで全く分かっていなかった作用機序でもって、さまざまな面白い活性があることが分かってきました。私たちもまだ30歳になるかならないかくらいの年齢で若かったこともあり、お互いに呼応し、まだアイデアの段階でしたが、「大発見じゃないか」と思ったんです。
2014年、Halcyonを立ち上げる。2018年、フェニクシーを共同創業。ジョンズホプキンス大学、ヘンリー・L・スティムソンセンター、マンスフィールド財団、京都大学等の理事のほか、お茶の水女子大学や、沖縄科学技術大学院大学(OIST)の評議員も務める。2022年の純資産額は2億2000万ドル(約299億円)と推定される。
そのままアカデミアの道に進んでもいいけども、他の先生達とも相談して、全く新しい医薬品を作る仕事に取り組むことに決めました。アカデミアの方の職探しを辞め、スポンサーになってくれる会社を探し、上野さんのご実家の上野製薬がスポンサーになってくれました。その後スピンオフして独立するんですが、最初は企業内起業みたいな形でスタートしたという感じです。
その後、アールテック・ウエノという会社を共同創業し、1987年ごろから1994年ごろにかけて、緑内障の目薬の臨床開発をしました。アカデミアにいた時は、中枢神経系、脳の研究をしていましたが、いきなり脳の適用では資金力や組織も足りないため、まずは眼の薬を作ろうということになりました。困難もありましたが幸運が重なり、臨床試験は3年ほどで終わりました。ものすごく短い期間で、1992年に承認申請をしました。ですから臨床試験が始まってから4年ほどで申請をして、1994年にはプロストン系緑内障治療薬の「レスキュラ点眼液」が発売になりました。
日本の「失われた20年」、米のテックバブルに見舞われてもIPO果たす
その後、アメリカへ拠点を移し、スキャンポ・ファーマシューティカルズ社を共同創業し初代CEOとなる。同社でも、プロストン系新薬の研究開発、会社経営に携わり、上野、久野両氏が発見、開発した2品目となる慢性特発性便秘症、オピオイド誘発便秘症、過敏性腸症候群治療薬「アミティーザ」の商品化に成功した。両社は、2000年代、相次いでIPO(株式公開)している。
――アメリカへ拠点を移したのはなぜですか。
「レスキュラ点眼液」の承認申請・発売がちょうど、日本の景気後退、いわゆる「失われた20年」が始まったころでした。発売後すぐに、次の薬の開発を始めたかったのですが、なかなかお金が集まりませんでした。発売までに既に多額の資金を使っていましたし、日本でもう1回はとても無理となり、日本を出てアメリカに移りました。
アメリカで一からやり直すことにして、米メリーランド州ベセスダで2人で事務所を借りて始めたのが、スキャンポ・ファーマシューティカルズという2つ目の会社です。1996年に創業しました。最初はお金もないし、暇ばっかりでうろうろしていたんですが(笑)、日本で発売した「レスキュラ点眼液」が非常によく売れて、ロイヤリティーが入るようになりました。そのお金を次の開発に回すことができました。
スキャンポでは、消化器系の過敏性腸症候群治療の新薬開発に取り組みました。腸は中枢神経に非常に近いということもあり、当初は眼科をやって、消化器系をやって、最後は中枢神経の創薬までと考えていましたが、残念ながらそこまではたどり着けませんでした。
(※注釈:腸は「第二の脳」とも呼ばれる複雑な末梢神経系だとされている)
慢性特発性便秘症及び過敏性腸症候群治療薬「アミティーザ」は、1999年に臨床試験スタートし、2005年にアメリカで承認申請し、2006年に発売しました。その過程もうまくはいっているけれども、やはり何十億というキャッシュバーンがあるので、資金が足りなくなり、ひたすら資金調達をしていました。当初は、2003年にIPOして資金を調達し、最後に臨床試験をやって発売と考えていたら、ちょうどテックバブルがはじけました。1社もIPOできなかったという時代です。そこで戦略を変更し、武田薬品のアメリカ法人に予約券込みで(米国などでの販売権を)売り、そのお金で最後の臨床試験をやって発売に至りました。
この2つの会社で作った「レスキュラ点眼液」と「アミティーザ」は全世界で1兆円余りの売り上げになりました。非常に大きな成功でした。経済的な成功もありますが、Bench to bedside(研究の結果を用いて、患者を治療するための新たな方法を開発するプロセス)とよく言いますが、研究室で見た驚き、大発見だと思った瞬間からローンチまでを2回見ることができたのは、サイエンスを志した私としては非常に幸運でした。
その後、2社ともIPOしましたが(アールテックウエノは2008年に大証ヘラクレス市場、スキャンポ・ファーマシューティカルズは2007年に米ナスダック市場に上場)、本当の意味での成長戦略を描くことができず、2社とも2017年に売却する決心をしました。今はどちらの会社もMergeされています。
Image: 久能祐子氏
セルフ・エフィカシー 「やってないけどやれる気がする」
日本では、1つの薬ができるまでに、一般的に9〜17年もの歳月を要し、数百億円〜1千億円以上の多額の研究開発費がかかるといわれている。新薬の開発成功率はおよそ3万分の1ともいわれる中、久能、上野両氏は2つの新しい医薬品開発を成功させた。
――2つの創薬系バイオベンチャーを立ち上げ、ビジネスとしても大成功をおさめました。新薬開発という「ゼロイチ」を成功させた秘訣は何ですか。
私自身がもともとがサイエンスの出身だったことと、当時は事業計画やリターンについて今ほど細かくなかったこともあると思います。「面白ければやってみよう」という感じでした。私も上野さんもその後に入ってきたメンバーも、発見のポテンシャルに関してかなりの自信があり、最後の山を登り切れば非常に素晴らしい薬になると思っていました。それを他の方たちにも分かっていただくのに、8〜10年かかったというイメージです。
PoC(概念実証)とよく言いますが、仮説を立てて、小さな実験をして、それから大きな実験をして証明していくという流れの中で、私たちが思っていた以上に良い結果がどんどん出てきました。そういう点では不安に思うことはあまりありませんでした。
もちろん、1つの臨床試験で何十億というお金を使うので、何のプロダクトもできていないのに、多額の資金を借りたり、エクイティで集めたりして、振り返ってみれば、それはすごくストレスの高い仕事だったと思います。
なぜ怖くなかったのかと後からいろいろな人に聞かれました。何十億も集めて、時間もかかる。振り返って自分なりに考えてみると、若かったこともありますし、セルフ・エフィカシー(self-efficacy=自己効力感)というか、「やってないけどやれる気がする」という感覚がありました。
全く新しい薬、前例のない薬、ファースト・イン・クラス(画期的医薬品)を自分たちで作る、ということに対しての確信があり、うまくいけば、多くの患者さんに届けることができるというビジョンがありました。そこに賛同して集まってくれた多くの人たちとビジョンを共有することができたことはすごく大きかったです。それを2回も続けて経験できました。
アメリカはGood Luckでほっといてくれる 日本は…
――創業や資金調達の面でアメリカと日本の違いを感じることはありましたか。
私がスキャンポ・ファーマシューティカルズの創業者CEOだったこともあり、資金調達や会社を大きくしていく中で、アメリカの良さを感じることが多くありました。大きな会社か、小さな会社かではなく、エビデンス、データを基にした話ができる。出資に関して、プランの段階でお話をしたとしても、あまり予見を言われず、アプローチに関しても特に何も言われませんでした。自分でやりたいと言えばやれる、という環境です。もちろん、資金調達の専門的なコンサルテーションをしてくれる人はいましたし、リーガルの専門家もいましたが、後は「ビジネスジャッジだ」「こちらが決める」という雰囲気がはっきりあったと思います。
振り返って良かったと思う事は、「ほっといてくれる」というのが一番良かったかなと今もよく話しています。日本だと、お金を出さない方達までも、いろんな意見をおっしゃることも多いですが、アメリカではあまりそういうことはありませんでした。「任せる」「見守る」というスタンスで、でも、だからといって助けるということでもないのですが。こちらが「今から結果を出します」とある意味で不安に思ってる時に、あまり外野の声が入って来ないという感じはありました。
アメリカは基本的にその人の責任。その人がやりたいと思うことで、まだやってないことに関しては「Good Luck」とは言うが、ネガティブな意見は言いません。日本でも、私たちが創業したときはまだ1980年代の終わりで、経済の調子も良い時期だったので、皆さんの感覚も前向きで、そんなに嫌な思いはしていません。そうは言っても、アプローチの仕方や成功確率、といった点にはすごく説明を求められるということはありました。
実際にサイエンスをやってる人はみんな分かると思うんですけど、仮説があって、それが正しいかどうかは、やってみないと絶対に分からないわけですよね。ですから、いくら私が100%大丈夫ですと言っても失敗する時もあるし、30%ですと言ってうまくいくときもある。そのサイエンスの在り方、受け止め方みたいなものも含めて、やはりアメリカと日本では少しカルチャーが違ったような気がしますね。
世界に羽ばたくには 「ハードルを高くあげすぎないこと」
――世界に飛び立ってビジネスをする際に、アドバイスはありますか。
一気に大きくしないこと、ハードルをあまり高くしないということですね。最初はいきなり大きい金額ではなく、例えばまず1億円集める、1億円売り上げるといったことを考えるのが大事です。スケールするためには、PoC、仮説があり、ビジネスとしての新しさや、唯一無二のテクノロジーがあることが大事ですが、まずは試してみないといけない。
Proof of Conceptとして、そこのハードルを上げすぎないことが大事です。やってみることで結果が出てきますし、仮説が間違ってたらピボットすることになるでしょう。うまくいったら「Go」になるし、失敗であったら「No Go」になるわけですよね。ですから、スタートアップから事業を大きくしていく時はやはり必ず仮説があり、そこを証明していくプロセスが必要です。山の登り方は1つではありません。山頂が見えていても、アプローチはいろいろある、というふうに考えた方がいいと思います。
アプローチで競わないこと、アプローチの出来を比べ合わないことが大事です。計画は60点くらいでもいいんじゃないですか。まずはやってみる。その時に先行投資が1億円か100億円では全然違いますから、まず1億円でなるべくたくさんのデータが出てくるようなPoCを作るということ。そこがお金よりも頭のいるところで、センスの必要な部分だと思います。
※後編は8日公開予定。