「エイって、実はイノベーションと縁の深い生き物なんです」
本記事で紹介するデザイン思考研修にまつわる対談は、少し変わったエピソードで幕を開けた。日立システムズの二郷正樹氏が、アイスブレイクとして切り出したのは、海の生物「エイ」の話だった。
実はその裏には、スタンフォード大学d.school講師・宮下祐介氏がワークショップ直前に海でエイに脚を刺され、開催が2カ月延期になるという出来事があった。しかし、二郷氏はそのハプニングさえも「デザイン思考の考え方と重なる出来事だった」と、柔軟なマインドで振り返る。
生成AIの登場、テクノロジーの進化、人材獲得競争の激化——。あらゆる企業の根幹を揺るがす変化が、津波のように押し寄せるなか、なぜ日立システムズは、シリコンバレーで磨かれた「本物のデザイン思考」を組織に取り入れようと考えたのか。そして、日本企業が陥りがちな「落とし穴」とは何なのか。
これまでの「日本の勝ちパターン」にとらわれない発想力を身に付けた人材を育成するため、日立システムズが昨年から取り組み始めた3日間集中型の「アイデア創出ワークショップ」。d.schoolで約20年教鞭を執る宮下氏と、社内変革を推進する二郷氏が、その本質を語り合った。
目次
・開催予定が2カ月ずれた!「これもある意味、デザイン思考」
・デザイン思考に辿り着くまで
・「本物のデザイン思考」を日本語で
・日本企業がハマる、プロトタイプ「2つの落とし穴」
・シリコンバレーにある「危機感」と「北極星」
・記事後編は…
開催予定が2カ月ずれた!「これもある意味、デザイン思考」
二郷:エイって、実はイノベーションと縁の深い生き物なんです。泳ぎ方が水中ドローンの設計に応用されたり、食べ方がフィルターの構造に応用されたり——。
で、なぜエイの話をしているかというと、実は今回ご紹介するデザイン思考ワークショップ、当初は昨年8月に開催する予定だったんですが、講師の宮下さんがビーチでエイに刺されてしまいまして。しばらく歩けないということで、10月に延期になったんです。
しかし、二郷氏はこれを笑い話では終わらせなかった。
二郷:トラブルがあっても、その状況を受け止めて前に進んでいく。強引かもしれませんが、これってデザイン思考の考え方にどこか重なるな、と。宮下さんが体を張って、ワークショップの前からデザイン思考を届けてくださったのかな、と思っています。
「思い通りにいかない状況を、次の一手に変える」。本編のテーマそのものを予告するような一幕だった。
アイデアを書き記した膨大な量の付箋と向き合い、宮下氏とデザイン思考を実践する日立システムズの社員(TECHBLITZ編集部撮影)
デザイン思考に辿り着くまで
そもそも、システム構築・運用保守をワンストップで担い、盤石なビジネス基盤を持つ日立システムズがなぜ今、シリコンバレー流のデザイン思考に踏み込んだのか。背景には、事業の土台そのものが揺らぎかねないという危機感があったからだという。
二郷:生成AIの登場やテクノロジーの進化で、事業環境が大きく変わっていく。私たちのベースとなる事業も、変革を迫られています。新しいビジネスやビジネスモデルを生み出し続ける、そしてそれを支える組織文化が必要だ——。そう考えて、2025年にR&D部門の中に「イノベーション推進センタ」を立ち上げました。
二郷氏がまず着手したのは、華々しい新規事業ではなく「土台づくり」だ。社内ポータル「きらめき☆スタジオ」を立ち上げて情報発信とアイデア募集の場をつくり、5分間で新規事業アイデアをプレゼンし合う「きらめき☆ピッチ」を開催。「意欲のある人材が社内にどれくらいいるのか」を可視化するところから始めた。
二郷:新しいサービスや事業を考えるとなると、どうしても「自分たちが持っているアセットをどう生かすか」「この商材をどう売るか」といった、作り手の視点になりがちなんです。でもイノベーションの本質は、課題を徹底的に深掘りするところから始まる。調べていく中で、辿り着いたのがデザイン思考でした。お客様への共感から入り、本当の課題を見つけて、小さく試しながら価値をつくっていく。「作れるもの」ではなく「求められるもの」をつくる、という発想ですね。
「本物のデザイン思考」を日本語で
その講師を務めたのが、宮下祐介氏だ。高校卒業後に単身渡米し、機械工学とプロダクトデザインを学んだのち、シリコンバレーでキャリアを積んだ。IDEO、GoPro、Fellowといった象徴的なブランドでプロダクトを統括し、医師のいないハイテク自動診療所やモバイル医療機器など、それまで存在しなかったプロダクト・サービスを世に送り出してきた人物だ。
同時に、デザイン思考の総本山であるスタンフォード大学d.schoolで約20年にわたり教鞭を執ってきた。d.schoolを牽引する共同創設者のペリー・クレバーン(Perry Klebahn)氏とも懇意で、通訳を介さず「本物のデザイン思考」を日本語でレクチャーできる、日本人としては極めて稀な存在。普段はシリコンバレーに活動拠点を置いている。
宮下:d.schoolが正式に立ち上がったのが2006年。当時、私はスタンフォードの大学院生で、まず受講生としてデザイン思考を習い、その後は講師として教えてきました。デザイン思考というと「見た目のデザイン」の話だと誤解されがちですが、サービスや体験、最近では人事や組織、そして人生そのものをよりよく設計するためのフレームワークなんです。
宮下氏はデザイン思考を、継続的な改善ではなく「非連続なイノベーション」を生むための手法だと位置づける。P&G、GE、SAP、IBM、Intuitといった企業が取り入れてきた実績を挙げつつ、d.schoolで体系化された5つのステップを紹介した。
日本企業がハマる、プロトタイプ「2つの落とし穴」
なかでも宮下氏が時間を割いたのが、プロトタイプ(試作)の捉え方だ。
宮下:日本には落とし穴が2つあると感じています。1つ目は、プロトタイプを製造業でいう「試作」——形も機能もほぼ整った、量産手前の完成度の高いもの——だと考えてしまうこと。2つ目は、「試作品」というモノに固執してしまうこと。d.schoolでよく言うのは「Built to Think」。試作はアウトプットではなく、手を動かして試作し続けること自体が、次のアイデアを生むためのインプットなんです。
きれいな一直線の図で語られがちな上記の5つのステップも、実際はまるで違うという。
宮下:学びや気づきをインプットにして、何度も何度も繰り返す。プロセスはたいてい「messy」、つまり乱雑でカオスに見えるものです。ツール自体は本や動画、数時間の研修でも学べる。でも、ツールを理解しただけではイノベーションは生まれません。
シリコンバレーにある「危機感」と「北極星」
では、現場では何が違うのか。宮下氏は自身の経験——スタートアップのIPO、買収、そして解散まで——を踏まえ、シリコンバレーで痛感したことを挙げた。
宮下:まず、スピードと危機感の度合いが桁違いです。大きな意思決定に数カ月かけていたら、その間にスタートアップの資金が底をついて、会社そのものがなくなってしまう。だから「解決策よりユーザーのペインポイントに惚れろ」とよく言われます。解決策はいくらでも出せる。でも、目指すべき“北極星”がずれていないかを、常に確かめ続けるんです。
会議室での議論だけでは正解にたどり着けないと自覚しているからこそ、とにかくアイデアを形にしてユーザーに体験してもらい、生の声を得るスピードが速い。自動診療所を手がけた際は、週に2〜3回のペースでモックアップを作り、機能性ではなく「待合室も医師もいない診療所で、患者がどんな心理状態になるか」を探っていったという。
スピードだけではなく、アイデアの数も圧倒的に違う。スタンフォードのボブ・サットン教授の研究に、こんなデータがある。
宮下:1つのイノベーションの成功の裏には、2,000ものアイデアがあった、という研究があります。成功率にすればわずか0.05%。残りの99.5%は、ある意味では失敗です。でも、それを失敗ではなく「学び」と捉えるマインドセットが何より大切なんです。
記事後編は…
理論を教わり、シリコンバレーの熱量に触れた日立システムズ。ではワークショップを実施した「その後」、組織には何が起きたのか——。
記事後編では、参加者を前のめりにさせた3日間の中身と、イノベーションを仕組みに変えていく組織戦略の現在地とリアルに迫ります。
「messy(乱雑)」でカオスなプロセスからイノベーションの種は生まれる(TECHBLITZ編集部撮影)