気候変動によって天候の不確実性が高まるなか、数週間から数か月先の天候をどう予測するかは、多くの産業にとって重要な課題となっている。しかし、従来の気象予測は1週間を超えると精度が著しく低下してしまう。この課題に挑むのが、米ボストン発のスタートアップ、Salient Predictionst(セイリアント・プレディクションズ)だ。同社は、海洋データとAIを活用し、数週間から数カ月先の気温や降水量を高精度に予測する独自モデルを開発している。今回は、共同創業者でCEOのマット・スタイン(Matt Stein)氏に、同社の技術と事業の狙いを聞いた。

目次
データ分析の専門家×気候・海洋科学者が創業
海洋データとAIが実現する「126日予測」
年率100%超の成長を支える事業モデル
気象学者版・AIエージェント
気象予測の進化が、強い社会の基盤に

データ分析の専門家×気候・海洋科学者が創業

 スタイン氏のキャリアは、一貫してデータドリブンな産業変革に携わってきた軌跡と言える。GEではソフトウェア部門の幹部として、航空、再生可能エネルギー、石油・ガス、ヘルスケアといった幅広い事業領域で、アナリティクス基盤となるソフトウェアの展開を主導してきた。その後、大気質(空気汚染)解析を手がける企業マルチチュード(Multitude)を創業し、同社の事業売却を経験している。

 次に参画したのが、気候リスク分析を専門とするジュピター・インテリジェンス(Jupiter Intelligence)だ。創業初期の第1号社員として加わり、山火事やハリケーン、洪水といった極端気象リスクが、気候システムの変化によって中長期的にどのように変動するのかを分析する事業に約4年間従事した。「顧客が、気候システムによってリスクがどのように変化しているのかを理解する手助けをする仕事でした」とスタイン氏は振り返る。

 転機となったのは、世界トップレベルの海洋・気候科学者2人との出会いだった。1人は40年にわたり物理海洋学の研究に携わってきたレイモンド・シュミット博士(Dr. Raymond Schmitt:現President)、もう1人は同じく物理海洋学を専門とするサム・レバン博士(Dr. Sam Levang:現Chief Scientist)である。

「彼らは、気候システムにおける重要な変数、特に海洋のデータが、数週間から数か月先の陸上の天候を予測するうえで極めて有効である点を研究していました。その研究内容に強い関心を持ち、3人目の共同創業者として参画することを決めました」

 こうして2019年にセイリアントは設立され、スタイン氏は共同創業者として経営に加わった。その後、2021年にCEOに就任し、本格的な事業展開をスタートさせている。

Matt Stein
Co-Founder & CEO
米スタンフォード大学で土木・環境工学を専攻。コーネル大学ジョンソン経営大学院で経営学修士を取得。2011年からGEで産業IoTプラットフォーム「Predix」の事業戦略を主導。2015年に都市大気汚染データ解析を行うMultitudeを共同創業し、後に事業を売却。2016年にはGE VenturesでデータおよびIoT投資を担当。2017年に気候リスク分析企業Jupiter Intelligenceに参画し、事業開発を統括。Salient Predictionsを共同創業し、2021年にCEOに就任。

海洋データとAIが実現する「126日予測」

 従来の気象予測が抱える根本的な課題について、スタイン氏はこう指摘する。

「政府機関が提供している数値気象予測モデルは、物理方程式を用いて大気中で何が起きるかを解くものです。短期的には有効ですが、予測期間が長くなるにつれて、こうした物理ベースのモデルは次第に破綻していきます」

 特に1週間を超える予測では、「過信」の問題が顕著になるという。物理ベースモデルは、極端な高温や降水量ゼロといった高い確信度を示す一方で、その予測が途中で反転するケースも多く、結果として安定性に欠ける。

 この課題に対し、セイリアントは、海洋データとAIを組み合わせた統計的アプローチを採用した。同社のモデルは、従来の大気データ中心・物理演算中心の手法とは異なり、海洋を含む複数のデータセットを活用し、機械学習ベースで中長期の天候パターンを捉える。

 その中核となるデータの一つが、世界の海洋を観測する国際的な観測網「Argo」だ。

「私たちは多くの公開データを活用していますが、Argoフロートのデータもその一つです。現在、世界中の海洋には約4,000基のフロートが展開されています」とスタイン氏は説明する。

 Argoフロートは、海洋の水温や塩分濃度を深度別に測定する。これらのデータは、数週間から数か月先の陸上の天候変化を予測するうえで重要な手がかりとなる。海洋の熱や塩分の循環は大気循環と密接に結びついており、従来の大気データのみを用いた物理モデルでは捉えきれなかった、中長期的な気象パターンの把握を可能にする。

 技術的な優位性について、スタイン氏は次のように語る。

「私たちのモデルは、最大126日先までの予測が可能です。これは、欧州中期気象予報センターのモデルが提供する46日を大きく上回っています。また、200のアンサンブルメンバーを生成できる点も特徴で、これは欧州モデルの約4倍にあたります。アンサンブルの数が多いほど、確率分布をより正確に理解でき、極端気象のリスクもより適切に評価できます」

 さらに計算効率の面でも優位性がある。126日分のアンサンブルメンバーを高速に計算できるため、リアルタイム性を確保しやすいという。

「私たちは、政府機関が公開するモデルよりも90分早く予測結果をリリースしています。ユーザーは、政府モデルが何を示すのかを、事実上90分前に把握できるのです」

image : Salient Predictions HP

年率100%超の成長を支える事業モデル

 セイリアントの事業モデルは、SaaS型の年間サブスクリプションを基本とする。料金は一律ではなく、顧客の利用目的や必要とするデータの範囲に応じて柔軟に設計される。

「価格は、顧客が必要とする指標や変数の数、地理的な対象範囲、そして時間スケールによって決まります。たとえば、日本だけを対象にするのか、アジア全体なのか、あるいは北米まで含めるのかで変わってきます」

 提供形態も多層的だ。予測データはAPIとして提供されるほか、より高度な活用を可能にするソフトウェア開発キット(SDK)も用意されている。これにより顧客は、独自の分析やトレーディング戦略、意思決定ロジックを自社内で構築できる。加えて、カスタムアラートの設定、リスク閾値や確率カットオフの調整などが可能な、先進的なユーザーインターフェースも提供している。

 こうしたプロダクト戦略を背景に、同社は急成長を遂げている。「詳細な数値は公表していませんが、過去2年間の平均売上成長率は100%を超えています」とスタイン氏は語る。

 顧客基盤も着実に拡大している。「現在、十数社以上の顧客と取引しており、世界でも最も先進的な定量的エネルギー取引会社のいくつかと協働しています」。これらの顧客とは単なる売り手・買い手の関係にとどまらず、モデル改善に向けた密接なフィードバックループを構築している点も特徴だ。

 具体的な導入事例として、カナダの電力会社ハイドロ・ケベック(Hydro Quebec)との協働との協業がある。水力発電は降水量や気温に大きく左右されるため、数週間から数か月先を見据えた気象予測が事業運営に直結する。

「彼らはカナダ国内に多数の水力発電資産を保有しており、どれだけの電力を顧客やグリッドに供給するのか、あるいは他市場へ輸出するのかを常に判断しています」とスタイン氏は説明する。セイリアントの中長期予測は、こうした意思決定を支える重要なインプットとして活用されている。

image : New Africa / Shutterstock

気象学者版・AIエージェント

 中長期戦略について、スタイン氏は明確なビジョンを描いている。目指すのは、エネルギーおよび農業市場における中長期天候予測分野での「信頼される標準」となることだ。

 その実現に向け、同社は予測モデルの精度向上に加え、詳細な検証やバックテストに力を注いでいる。「信頼を生むのは、モデルそのものの強さだけでなく、どれだけ透明性を持って検証結果を示せるかです」。さらに、顧客が予測情報をどのように意思決定に使っているのかを丁寧に理解し、その知見をユーザー体験に反映させることを重視しているという。

 こうした取り組みの延長線上にあるのが、3〜4年先を見据えた「仮想気象学者(バーチャル・メテオロジスト)」の構想だ。生成AIは消費者向け領域では急速に普及している一方、企業での導入は比較的緩やかで、気象学分野ではなおさらだ。その理由についてスタイン氏は、「気象の世界は非常に複雑で、情報に多くのニュアンスがあるためです」と説明する。

 しかし、この“遅れ”こそが機会でもある。多くの企業にとって、専門の気象学者を雇用することは容易ではない。一方で、AIによる仮想的な気象学者があれば、数週間から数か月先の天候リスクを踏まえた意思決定が可能になる。また、すでに複数の気象学者を抱える高度な企業にとっても、人間の専門家をAIが補完する協働モデルが有効になると見ている。

気象予測の進化が、強い社会の基盤に

 日本市場についても、スタイン氏は前向きな見方を示す。セイリアントの予測モデルはグローバルに対応しており、日本を含む世界各地のデータをすでに提供している。なかでも注目しているのが、日本のエネルギー取引市場の急速な変化だ。スタイン氏は、近年の報道などを踏まえ、日本の商社やエネルギー関連企業が競争優位を得るために、気象予測技術への投資を強めていると分析している。

 現在の日本展開は、既存顧客を起点としたアプローチが中心だ。セイリアントは、米国や欧州に本社を置く大規模で高度なエネルギー企業と多く協働しており、そうした企業の日本法人や日本事業を通じてサービスを提供している。

 本格参入の判断材料となるのは、日本地域データへのAPI利用状況だという。既存顧客による日本向けデータの利用が継続的に増加すれば、それを需要拡大のシグナルと捉え、日本市場への投資を加速させる。「1〜2年以内に、その判断を下す可能性は十分にあります」とスタイン氏は語る。

 同社のマントラは「Forecast Further(予測をさらに先へ)」。天候に影響される意思決定を行う企業が、より先の時間軸を見据えて判断できるようにすることが使命だ。とりわけ重視しているのは、従来「信頼できない」とされてきた、1週間を超える予測への信頼を築くことにある。

「1週間を超える天候予測に対して、多くの人は『信じられない』と感じます。だからこそ、私たちは存在しています。企業が数週間から数か月先の時間スケールで、自信を持って意思決定できるよう支援するのです」

 そしてスタイン氏は、気候変動時代におけるレジリエンス向上への貢献をこう締めくくった。「何かが起こる前に予測を見ることで、事前に備えることができます。その結果、実際に事象が起きたときの経済的インパクトを大きく抑えることができるのです」

 気象予測は、もはや災害対策にとどまらない。エネルギー、農業、金融、製造、物流といった産業全体を支える基盤の一つだ。セイリアントが切り拓く100日超の予測技術は、気候変動リスクに直面する社会の強靱化に向け、重要な役割を果たしていくだろう。



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