食卓の裏側で、静かな危機が進行している。スーパーの惣菜、冷凍パスタ、デリバリーのサラダボウル――それらを作っているのは食品加工会社だ。アメリカでは現在、その現場に人が足りていない。100万を超える雇用が不足しており、需要に生産が追いついていない状況が進行している。AIとロボティクスを駆使し、こうした「見えない台所」を支えるのが、サンフランシスコ発のスタートアップ、Chef Robotics(シェフ・ロボティクス)だ。同社が開発するAIロボット「Chef(シェフ)」は、人の代わりに「食をつくる手」として働き、調理済み食材を正確に盛りつける。シェフ・ロボティクスの創業者でCEOのラジャット・バゲリア(Rajat Bhageria)氏に話を聞いた。

目次
食の現場を蝕む深刻な「人手不足」
学習を重ねたAIが、人の感覚で作業する
クライアントの要望から始まったChefの開発
調理済み食品の文化を持つ日本にも強い関心が

食の現場を蝕む深刻な「人手不足」

―シェフ・ロボティクスはアメリカの食品業界を救うスタートアップとして始まりました。その背景について教えてください。

 アメリカの食品業界は、これまでにない人手不足に直面しています。調理済み食品の具材を詰める、惣菜をトレーに盛りつけるといった、いわば現場を支える作業を担う人が、今や圧倒的に足りていません。

 食品調理・加工分野では、すでに約100万人規模の労働力が不足しており、このままいくと2030年にはその数が約3倍に膨らむと見られています。さらに問題なのが離職率の高さです。年間の離職率は約300%に達し、同じポジションに1年で3人が入れ替わる計算になります。これはまさに、アメリカ最大級の労働問題だと言える状況です。

―なぜ、これほどまでに人手が集まらないのでしょうか。

 理由は一つではなく、いくつもの要因が重なっています。まず大きいのは労働環境の厳しさです。食品工場の仕事は暑く、作業内容も単調で、賃金も他の職種と比べて高いとは言えません。

 そこに拍車をかけているのが、いわゆる「ギグ・エコノミー」の存在です。UberやDoorDashのように、空調の効いた車内で、より柔軟な働き方ができる仕事が広がり、人々はそうした選択肢を取るようになっています。その結果、食品工場の現場に人が戻らなくなっているのです。

 この影響はすでに業界全体に及んでいます。多くの食品メーカーが需要に生産が追いつかず、供給制限を余儀なくされているのが現状です。しかも食品は、電子部品や衣料品のように簡単に海外生産で補えるものではありません。食品は腐敗するため、国内での生産と労働力が不可欠です。人手不足が続けば、調理済み食品の供給そのものが成り立たなくなる可能性すらあります。

―食品調理や加工の分野では、なぜ自動化が難しいのでしょうか。

 最大の理由は、食品が本質的に「ばらつきのある素材」だからです。電子部品や飲料ボトルのように形状が完全に規格化されたものは自動化しやすい。一方で食品は、一つひとつ形や大きさ、柔らかさ、水分量まで異なります。たとえばカットされたチキンでも、すべて同じ形のものは存在しません。

 従来の産業用ロボットは、決められた動きを正確に繰り返すことには非常に優れていますが、こうした予測不能なばらつきには対応できませんでした。

 さらに食品業界では、「ハイ・ミックス・ロー・ボリューム(多品種少量生産)」が当たり前です。日々異なる商品を製造し、トレーや容器の形状も頻繁に変わります。従来型の自動化設備では、そのたびにラインを止めて設定を変える必要があり、コストも現実的ではありませんでした。だからこそ、盛りつけや詰め作業は長年にわたり「最後まで人の手が必要な工程」とされてきたのです。

Rajat Bhageria
Founder & CEO
米ペンシルベニア大学ウォートンスクールで経済学を中心に、業務管理、マーケティング、コンピューターサイエンスを学び、理学士を取得。その後、同大学GRASP研究室での研究を通じて工学・ロボット工学・機械学習の理学修士を取得。AI起業家。過去に複数のスタートアップやVCを創業・売却後、2020年にChef Roboticsを設立。AIと3Dビジョンを活用した食品製造ロボットの開発をリードし、食品産業の労働構造改革を推進。米サンフランシスコ在住。

学習を重ねたAIが、人の感覚で作業する

―シェフ・ロボティクスが開発したAIロボット「Chef」が、従来のロボットと異なる点について教えて下さい。

 Chefは、「食品調理・加工の現場で、食材を扱うことに特化したAIロボット」である点が最大の特徴です。従来の製造業向けロボットは、金属やプラスチックのように硬く、形状が一定の素材を前提に設計されており、基本的には「同じ製品を同じ動きで作り続ける」ことを得意としてきました。

 一方でChefが扱うのは、柔らかく、滑りやすく、形も大きさも一つひとつ異なる食材です。さらに、食品工場では日々異なるメニューが製造され、トレーや容器の種類も頻繁に変わります。Chefは、こうした現場ごとの違いに対応しながら、1台で複数の料理や工程を担うことができます。たとえば、ボウル料理の具材を盛りつけたり、トレーにパスタや副菜を配置したりといった作業を、同じロボットがこなします。

 それを可能にしているのが、AIとロボティクスの融合です。Chefは3Dカメラを用いて、食材やトレーの位置、角度、形状をリアルタイムで把握します。その結果、「今、どこに何があるのか」を常に理解しながら、毎回最適な動きを計算して実行することができます。人が目で見て判断する感覚に近い形で、状況に応じた作業が可能になっているのです。

 1台あたりの作業スピードは人間とほぼ同等ですが、ロボットは長時間の連続稼働が可能です。これにより、現場全体の生産性や品質の安定性を、継続的に高めることができます。

―類似企業と比べた時の、シェフ・ロボティクスの特徴についてうかがえますか。

 最大の違いは、ロボットのハードウェアそのものではなく、「ソフトウェアを中核に据えている」点です。産業用ロボット自体は、既存の優れたハードウェアを活用していますが、それだけでは柔軟な作業は実現できません。

 Chefでは、AIとソフトウェアに重点的に投資し、学習を重ねることで、状況に応じた動きを可能にしています。ハードウェアが同じであっても、ソフトウェアが進化すれば、ロボットの振る舞いそのものが変わる。そうした思想で開発されていることが、他社との大きな違いです。

image : Chef Robotics 「Chef」ロボット

―AIが食材を学習する過程について教えてください。

 開発初期は、1種類の食材を安定して扱えるようになるまでに、約1年を要しました。本当に、たった1種類です。チキンやポテトといった食材でも、形や大きさ、重さ、水分量は一つひとつ異なります。そのためAIには、スプーンの角度や深さ、すくう位置、トレーまでの距離など、数多くの要素を組み合わせた動作を学習させる必要がありました。

 最初の1年で対応できた食材は10種類ほどでしたが、そこから学習速度は一気に向上します。経験が蓄積されるにつれて、次の食材、その次の食材へと応用が効くようになり、現在では新しい食材の追加に1分もかからなくなっています。

 現在、Chefでは1つの食材につき約150個のパラメータが設定されています。これは、「その食材をどうすくい、どう運び、どう盛りつけるか」を定義する変数群です。これまでに約2,000種類の食材に対応しており、それぞれに最適化された扱い方が用意されています。

 クラウドを通じてロボット同士が“学びを共有する”点も、Chefの大きな特徴です。新しい食材を扱う際には、担当者が写真と食材名を入力するだけで、AIが初期の動作ポリシーを生成します。その学習データはクラウド経由で全ロボットに反映されるため、別の工場であっても、同じ食材をすぐに扱えるようになります。

―開発の過程で、最も大変だった点について教えて下さい。

 一見するとChefは、「食材を掴んでトレーに置くだけ」のシンプルな作業をしているように見えます。しかし実際には、これは非常に難易度の高い技術課題です。食品には膨大な種類があり、それぞれが微妙に異なる性質——形状、質感、重さ、水分量——を持っています。言い換えれば、何百万通りもの“違い”に対応しなければならないということです。

 しかも、すべての食材で同じ精度とスピードを保ち、食材を傷つけることなく、毎回安定した結果を出さなければなりません。さらに大きな挑戦だったのが、特定用途の専用ハードウェアに頼らず、汎用的なロボットとソフトウェアだけでそれを実現することでした。

 特定の1品だけを扱う“専用ロボット”であれば、比較的作りやすい。しかし、Chefが目指したのは、あらゆる食材・メニューに対応できる汎用システムです。この設計思想そのものが、開発における最大のチャレンジでした。

image : Chef Robotics 「Chef」ロボットが葉野菜を盛り付けている様子

クライアントの要望から始まったChefの開発

―現在、Chefはどのような業界や現場で使われていますか。

 現在Chefは、大きく分けて4つの分野で活用されています。1つ目は、サラダやサンドイッチ、ブリトーなど、加熱せずにそのまま食べられる「フレッシュミール」。2つ目は、調理後に冷凍し、加熱して提供される「フローズンミール(冷凍食品)」です。

 3つ目が、アメリカで急成長している「D2C(Direct to Consumer)」分野。調理済みの食事を個人宅に直接配送するサービスです。そして4つ目が、「コントラクト・マニュファクチャリング」と呼ばれる、自社ブランドを持たず、他社ブランドの食品を製造する受託型の食品メーカーです。Chefは、こうした多様な現場で稼働しています。

―具体的な導入事例について、教えて下さい。

 最初の顧客は、オーガニック食品メーカーのAmy’s Kitchen(エイミーズ・キッチン)でした。新型コロナウイルスの流行期、同社は極めて深刻な人手不足に直面しており、「何とか自動化できないか」という切実な相談を受けたことが、Chef開発の直接のきっかけになりました。

 スタートは2台のロボットからです。当然ながら、最初からすべてが順調だったわけではありません。導入当初は、「盛りつけが均一でない」「食材がこぼれる」「トレーがずれているのに置いてしまう」といったフィードバックが、ほぼ毎日のように現場から寄せられました。そのたびにソフトウェアを修正し、改善を重ねていきました。

 試行錯誤を続けながら徐々に安定稼働を実現すると、エイミーズ・キッチンのチームからの信頼も高まっていきました。そこから4台、さらに台数を増やし、工場をまたいで展開。現在では3つの工場で、合計20台のChefが稼働しています。2台から始まり、20台まで拡大したことは、製品性能への信頼の表れだと考えています。まさに顧客と一緒にChefを育ててきた、という感覚です。

 またChefの導入により、生産量は2〜3倍に向上しました。加えて、AIが盛りつけ量を最適化することで、フードロスの削減にも大きく貢献しています。食品メーカーにとって、原価の約半分は食材費です。その無駄を減らせることは、非常に大きなインパクトがあります。エイミーズ・キッチンからも、「コスト削減だけでなく、品質の安定につながった」という評価を得ています。

―シェフ・ロボティクスのビジネスモデルである「RaaS(Robotics as a Service)」について教えてください。

 RaaSは、Chefを継続的に利用してもらうためのサブスクリプション型のモデルです。毎月利用料を支払うChatGPTのようなAIサービスと、基本的な考え方は共通しています。

 このモデルを採用した理由は、顧客にとっての導入ハードルを下げると同時に、価値の向上を継続的に共有できるからです。RaaSであれば、高額な初期投資を必要とせず、月額の運用コストだけで導入できます。さらに、契約期間中はソフトウェアが継続的にアップデートされ、追加費用なしでロボットの性能が向上していきます。導入後も「使えば使うほど良くなる」仕組みを提供できる点が、RaaSの大きな特徴です。

image : Chef Robotics 左「従来の人手作業による食品製造ライン」右「ロボット『Chef』搭載の自動化食品製造ライン」

調理済み食品の文化を持つ日本にも強い関心が

―今後、日本市場への展開を考えていますか。

 現在はアメリカとカナダを中心に事業を展開しており、次のステップとしてイギリスやヨーロッパ市場を検討しています。その先の展開先として、日本にも強い関心を持っています。日本は惣菜や調理済み食品が生活に深く根づいており、Chefの技術が最も活かせる国のひとつだと考えています。

 もっとも、アメリカでの事業立ち上げがそうであったように、私たちは単独で市場に入るのではなく、現地の食品メーカーや製造現場と密に連携することを重視しています。日本においても、信頼できるパートナーとともに現場に入り込み、その環境に最適化したシステムを一緒に作り上げていきたいと考えています。

―今後のビジョンについて教えてください。

 現在、シェフ・ロボティクスは北米市場で一定の存在感を確立しつつあり、次の目標として、世界で1,000台のロボットを実際の現場で稼働させることを掲げています。その先には、1万台、10万台規模への拡大も視野に入れています。それほどまでに、食品業界はAIとロボットが価値を発揮できる余地の大きい分野だと考えています。

 人手不足は、もはや一国だけの問題ではなく、世界共通の課題です。シェフ・ロボティクスが目指しているのは、人の仕事を奪うことではありません。単調で過酷な作業をロボットに任せ、人はより創造的で付加価値の高い仕事に集中できる社会を実現することです。

 私たちは「労働の再定義」を進め、ロボットが人の力を補完する持続可能な未来を、日本のパートナーとともに築いていきたいと考えています。



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