音響と工学のスペシャリストである夫妻が創業
DSP Conceptsの創業者は、CEOのChin Beckmann氏と、その配偶者でCTOのPaul Beckmann氏。Chin Beckmann氏はBoston Universityでコンピューターエンジニアリングとピアノを専攻し、Northeastern UniversityでMBAを取得している。工学やビジネスだけでなく、California Pops Orchestraでピアニストを務める音楽家としての側面も持つ。Paul Beckmann氏は、Massachusetts Institute of Technology(MIT)でAlan V. Oppenheim教授(電気工学・コンピュータサイエンス)のもと信号処理分野を研究し、博士号を取得している。夫婦そろって工学と音響の専門家だ。なお、「DSP」とは、Digital Signal Processorのことだ。
同社の主力製品のひとつが、オーディオ・エクスペリエンス・デザイン・プラットフォーム「Audio Weaver」だ。これは、各種機器に搭載する多様なオーディオ関連部品をGUIで柔軟かつ簡単に設計できるツール。プロトタイプから設計、チューニングなどのワークフローをサポートするローコードツールだ。
Chin Beckmann氏によると、オーディオコンポーネントの設計は、メカニカルな部分だけでなく、音響学も関わるため非常に難しいという。たとえば、製品の形状が変わるだけでも音響や信号に影響が出るからだ。「湖に石を落とすと波が生じます。湖の形が違えば、生じた波の影響は異なりますね。オーディオも波ですので、何かを少し変えるだけでもその影響は大きくなるため、機器の設計は難しいのです」
オーディオ製品を構成する部品を連携するためにはソフトウェアによるエンジニアリングが必要で、かつ、それぞれの機能が同じ「時計」を使っているように連動する必要があるという。それに加えて専門家の耳(ゴールデン・イヤー)によるチューニングも欠かせない。まるでオーケストラのメンバーが同じ楽譜を見ながら演奏するような仕組みが必要になる。これらの技術や知識、経験を兼ね備えたBeckmann夫妻は稀有な存在だ。
「私たちは長年オーディオ分野の製品開発に携わってきました。そこで、プロセッサーメーカーのARMからDSPのライブラリ作りを手伝ってほしいと依頼されました。その後、Tensilicaという、Cadence Design Systems傘下の半導体メーカーからも声がかかりました。そこで、プログラミングせずにチップの設計を書き出せるツールを提供しようと、投資家から出資を募り起業したのです」
数多くの高級車やAV家電、スマートデバイスに採用
「Audio Weaver」は、オーディオ製品の開発者がDSP (デジタル信号処理) のプログラミングスキルを必要とせずに複雑な音声処理システムを構築できる開発環境ツールだ。直感的でわかりやすいインターフェイスが特徴で、関係するエンジニアが機器の構成を調整でき、開発コストを軽減しながら効率的なオーディオ技術の構築を行うことができる。
必要な部品が供給できないときに代替のチップや部品を用意しても品質が変わらないような変更をシミュレーションできる柔軟性も備えている。現在、自動車やテレビ、オーディオ、補聴器、VRグラス、洗濯機、カメラなど、オーディオコンポーネントが搭載された機器の設計に利用されており、DSP Conceptsはこのツールのライセンス収益と、製品1台あたりのロイヤリティ収益を得ている。
Image: DSP Concepts
DSP Conceptsに投資している企業やVCには、ARMのほか、BMW i Ventures、Subaru Corporation、Porsche Digitalといった自動車関連企業や、Sony Innovation Fund、MediaTek Ventures、Taiwania Capital、Walden Internationalなどが名を連ねている。収益をもたらす業界としては、PorscheやMercedes、Teslaなどおよそ半分が自動車関連で、残り半数はさまざまな家電製品やスマートデバイス関連となっている。
業績は好調で、2017年以降、4年連続で100%以上の成長をしてきた。2021年においてはパンデミックによるサプライチェーンの問題によって業績は横ばいとなったが、新規顧客は増加しているという。特にTeslaやPorscheのEV(電気自動車)など、次世代の自動車分野が好調だという。日本では、スバルのほか、マツダにも技術提供が始まっている。
「自動車は最も複雑なオーディオ製品と言えます。車内で通話をすることもありますし、音楽も聴くでしょう。室内ではエンジンや走行のノイズをキャンセルしなればなりません。またEVはエンジンを使用していないので音がなく、歩行者に存在を知らせるための偽のエンジン音が必要な場合があります。Porscheのようなブランドの場合は、プレミアムなスポーツカーサウンドを提供しています。ショールームに行くことがあったら、EVのフェイクエンジン音を聴いてみるといいでしょう」
多機能化するワイヤレスオーディオの分野にも注力 オーディオ設計のプラットフォーマーに
2022年1月にはシリーズCラウンドで2800万ドル(約37億円)を調達しており、事業規模の拡大に投資する。本社はシリコンバレーだが、ボストンやデトロイト、ドイツ、台湾、韓国にも拠点がある。今後注力する新しい市場として、TWS(True Wireless Stereo、完全ワイヤレスステレオ)メーカーのためのソリューションがある。コンピューターが高性能になるに従って、ワイヤレスイヤホンの性能が向上している。それらのメーカーが、より多様な機能を持った製品を提供できるようサポートするのだ。
Chin Beckmann氏は「チップが高性能になり、メモリも電力効率も良くなりました。そこでこの分野に参入することにしました。たとえば、イヤホンによって聴覚をパーソナライズし、健康診断なども可能になるでしょう。非常に小さな製品ですので難しいですが、Audio Weaverがあるので設計は簡単になります」と説明した。また、今後、発展が予想されるメタバース分野においてもオーディオは重要となるため、VRゴーグルなどの分野にも注目している。
その昔、文章の執筆にタイプライターを使っていた頃は、ミスが許されなかった。しかし今はワープロソフトを使ってすぐにやり直しができる。執筆だけでなく、写真加工をするならPhotoshop、機械学習をするならTensorFlowなど、各分野の標準的なツールも登場している。DSP Conceptsのビジョンは、オーディオ機器設計分野において、標準的なプラットフォーマーになり、イノベーションの促進をサポートすることだ。Chin Beckmann氏は日本市場への参入について次のようにコメントした。
「日本企業は機械設計に長け、非常に優れたプロセスを持っています。今、世界はソフトウェア中心に変化しています。私たちは、ソフトウェアインフラストラクチャの一部です。お客様はチップのことを考えずに、どうすれば良い製品を作るかを考えるだけでいいのです。自動車業界のオーディオ設計はそうなりつつあります。私たちはこの新しいイノベーションのアイデアで、日本企業をサポートしていきたいと思っています」