量子コンピュータの急速な進化は、既存の暗号システムを揺るがす「ポスト量子時代」の到来を告げている。その対抗策として注目を集めるのが、量子力学の法則に基づき「原理的に盗聴が不可能」とされる量子暗号通信だ。オーストリア・ウィーン発のスタートアップ、Zerothird(ゼロサード)は、2022年ノーベル物理学賞受賞者アントン・ツァイリンガー(Anton Zeilinger)氏らの研究を基盤に、量子もつれ技術の商用化に成功。同社のシステムは、他社では実現が難しい350km級の長距離量子通信を可能にし、顧客は特別な機器を導入することなく量子暗号鍵を利用できるという。世界でも類を見ない“鍵の通信インフラ”を目指す同社のビジョンと技術的強みについて、共同創業者・共同CEOのフェリックス・ティーフェンバッハー(Felix Tiefenbacher)氏に聞いた。

目次
ノーベル賞の「量子もつれ」技術を商用化
量子もつれが実現する「絶対に盗聴できない通信」
「量子の鍵」で新たな通信インフラ層を構築
長距離通信で競合圧倒「ノーベル賞技術は我々だけ」
ウィーンーフランクフルト間の接続に成功
各国政府が描く「量子セキュアな未来」も追い風
量子コンピュータ時代を日本企業とともに

ノーベル賞の「量子もつれ」技術を商用化

 ティーフェンバッハー氏がゼロサード(Zerothird)を共同創業した背景には、量子物理学者としての研究と、起業家としての豊富な経験がある。「私は量子物理学者であり、同時に起業家です。物理を学び、研究を重ねた後、最初の挑戦は太陽熱発電の分野でした」と彼は語る。

 2008年に創業したHELIOVIS AGでは15年間CEOを務め、約60件の特許を持つ大型太陽光集熱装置を開発。3大陸で事業を展開し、30人のチームを率いてオマーンで大規模太陽熱発電所を建設した。「この事業では約5,000万ユーロを調達しました。資金調達の経験が、後の起業にも生きています」と振り返る。

 転機は2023年、量子物理学者の友人ルパート・ウルシン(Rupert Ursin)氏からの一本の電話だった。「彼は大学のポジションを離れて、ゼロサードを始めたいと言いました。資金調達の経験を持つ共同創業者を探していたのです」

 両氏はかつてオーストリア科学アカデミー傘下の量子光学・量子情報研究所(IQOQI)で研究しており、その研究室を率いていたのがアントン・ツァイリンガー教授。彼は量子もつれの研究で2022年にノーベル物理学賞を受賞した人物だ。「私たちが取り組んでいた研究がまさにその受賞対象でした。技術的に非常に強固な基盤があるのです」とティーフェンバッハー氏は語る。

 量子通信の理論的基礎は1980年代に確立されたが、ハードウェアの制約から長らく実用化が難しかった。「私たちが今扱うハードウェアは、ようやくこの2〜3年で実現可能になったものです。アイデア自体は古いですが、技術は非常に新しいのです」

Felix Tiefenbacher
Co-Founder & Co-CEO
スイスのバーゼル大学で博士号(雪崩研究)を取得後、ETHチューリッヒ(チューリッヒ工科大学)で応用統計学を学ぶ。スイス連邦雪・雪崩研究所を経て、オーストリア科学アカデミー傘下の量子研究機関IQOQIで量子暗号の研究に従事。2008年に太陽熱発電のHELIOVISを創業し15年間CEOを務め、2023年にZerothirdを共同創業して共同CEOに就任。

量子もつれが実現する「絶対に盗聴できない通信」

 ゼロサードの革新は、量子もつれを利用した暗号鍵配送(eQKD:entanglement-based Quantum Key Distribution) にある。従来の暗号技術が数学的アルゴリズムに頼っているのに対し、同社の技術は物理法則そのものを安全性の根拠としている。

 ティーフェンバッハー氏はまず、量子暗号が必要とされる背景をこう説明する。

「量子コンピュータが発達すると、今日安全だとされている通信も解読可能になります。だからこそ、重要インフラのネットワークを“量子時代”に備えて守る必要があるのです。今はインターネットバンキングやeコマースが安全に使えますが、5年後には安全でなくなるかもしれません」

 安全な通信には、送り手と受け手が同じ“対称鍵”を共有し、第三者がその鍵を持たないことが前提となる。「あなたが鍵を持ち、私が鍵を持ち、第三者(ゼロ・サード)はいない。鍵のコピーは2つしかありません。だから通信は安全なのです」

 しかし、その鍵をインターネット経由で送る現行方式は、量子コンピュータの出現によって最も脆弱な部分となる。そこでゼロサードが用いるのが、量子もつれ(entanglement)だ。同社の技術では、同時に生成された2つの光子を光ファイバーで離れた2地点に送信し、双方がそれぞれ測定することで暗号鍵を生成する。「もつれ合った光子を用いれば、数学やアルゴリズムに頼らず、量子物理そのものの原理で鍵を共有できます」

 この方法では、第三者が途中で光子を観測(盗聴)すると、量子もつれの相関関係が破壊され、盗聴の存在を即座に検知できる。つまり、「盗聴できない」のではなく、「盗聴した瞬間に検知される」仕組みだ。「これは単なる理論ではなく、物理法則に基づく現実です。第三者が存在しないことを、実験で証明できます。——だから“Zero Third(ゼロサード)”なのです」

 同社の通信は、将来どれほど高性能な量子コンピュータが登場しても解読されないという。「我々の鍵交換は数学的プロセスを使いません。純粋に量子物理に基づいているため、たとえ1万年進化した量子コンピュータが現れても解読は不可能です」

image : Vink Fan / Shutterstock

「量子の鍵」で新たな通信インフラ層を構築

 ゼロサードの事業モデルの中核は、「Key-as-a-Service(KaaS)」と呼ばれる新しい発想にある。企業が複雑な量子通信機器を導入することなく、安全な鍵配送をサービスとして利用できる仕組みだ。「我々の技術は、通信と同じ光ネットワーク上で動作する“新しい通信インフラ層”です。鍵交換はデータ通信と同じ光ファイバーを通じて行われます」

 ティーフェンバッハー氏は、日本を例に具体的なサービスの仕組みを説明する。「例えば日本の大企業が東京・大阪・広島に3つのデータセンターを持っているとしましょう。我々はこの3都市間を結ぶ量子鍵交換インフラ層を構築し、企業に鍵を提供します」

 顧客は特別な量子デバイスを新たに導入する必要がない。既存の暗号システムにゼロサードから提供される鍵を組み込むだけで利用できる。「お客様が量子通信の複雑な装置を扱う必要はありません。我々から鍵を購入し、いま使っている暗号化システムに挿入するだけで使えます。新しい機器を買う必要もありません」

 料金体系はシンプルで、使用する鍵の量に応じた従量課金制を採用している。「鍵を使えば使うほど、支払う額が増える。それだけのシンプルな仕組みです」

 顧客の中心は、金融機関、重要インフラ、そしてデータセンター事業者などの大規模企業だ。日本では大手通信会社がデータセンターを運営し、企業がそのスペースを借りるケースが一般的である。「例えば日本では、NTTのような大手通信会社が多数のデータセンターを運営し、そこに大企業が入居しています」

 ゼロサードの提供形態も柔軟だ。通信事業者がゼロサードから鍵を仕入れてデータセンター内の企業に販売する場合もあれば、ゼロサードが直接エンドユーザーに鍵を販売する場合もある。「通信事業者が我々の鍵を購入し、自社のデータセンター内で販売することもできますし、我々が直接、エンドユーザーに提供することもあります」

長距離通信で競合圧倒「ノーベル賞技術は我々だけ」

 競合との違いを問うと、ティーフェンバッハー氏は即座に答えた。「量子セキュア通信には複数の技術やプロトコルがありますが、量子もつれベースの量子鍵配送を使っている企業は、世界で2社だけです。ゼロサードとドイツの1社です」

 他にも10〜15社が別方式の量子鍵配送を手がけているが、それらは「安全性も性能も劣る」との見解を示す。ゼロサードの技術は、物理的にもつれを利用する「最も安全な方式」だという。「我々のアプローチは、ノーベル物理学賞で認められた研究を直接ベースにしています。他の企業にはその背景がありません」

 さらにゼロサードは、技術だけでなくビジネスモデルでも差別化している。他社が量子通信装置を販売するのに対し、同社は「Quantum Key as a Service(KaaS)」として鍵そのものを提供する。「他の企業はすべてハードウェアを売っていますが、我々はサービスを売ります」

 この方針は顧客の現実的なニーズに基づいている。重要インフラ、エネルギー、銀行、保険、ヘルスケアなどの大企業は、新しい機器を導入・運用する負担を嫌う傾向があるためだ。「大企業にとって、機器の導入はリスクが高い。サービスとして鍵を購入すれば、動かなければ支払いを止めるだけ。リスクが最小限に抑えられるのです」

 ゼロサードのもう一つの強みは、通信距離にある。他社のシステムは1つの都市内、たとえば東京のような限られたエリアでしか安定的に動作しないが、ゼロサードは都市間通信を実現している。「他社の量子鍵サービスは多くが20〜50キロメートル、長くても100キロメートルが限界です。私たちは350キロメートルをカバーできます」

 この技術により、ウィーンとフランクフルトといった数百キロメートル離れた拠点間でも安全な量子通信が可能となる。「合理的なコストで東京・大阪・広島といった主要都市を結べるのは、世界でもゼロサードだけだ」とティーフェンバッハー氏は胸を張る。

ウィーンーフランクフルト間の接続に成功

 ゼロサードは創業から約2年半の歳月をかけ、量子通信技術を研究段階から実用レベルへと引き上げた。いま、同社は商用サービスの正式ローンチを迎えている。「サービスはまさに今、始まったばかりです。アカデミックな技術を2年かけて産業用の製品に転換しました。最初の顧客は、欧州の大手銀行と国際的なクラウドサービスプロバイダーです。彼らが我々の“Quantum Key as a Service”を初めて導入したお客様です」

 顧客がゼロサードを選んだ理由は明確だ。一つは技術の信頼性――ノーベル賞受賞研究に直結する技術という点だ。「私たちのアプローチは非常に良い評判を得ています。なぜなら、ノーベル物理学賞を受賞した研究に基づいているからです。他のどの企業にもノーベル賞の裏付けはありません」

 もう一つの理由は、圧倒的な通信距離だ。「この銀行とクラウド事業者は、ウィーンからフランクフルトまで、約1,000キロメートルをカバーする必要がありました。他社では不可能な距離です。これこそが、彼らが我々を選んだ最大の理由です」

 今後12カ月でウィーンーフランクフルト間の量子通信インフラを構築し、その後はネットワークの拡張を進める計画だ。「次のステップとして、パリ、ベルリン、ワルシャワなど欧州主要都市をネットワークに加え、黒海からバルト海、北海、地中海までを結ぶ中東欧の量子通信リンクを構築したいと考えています」

 そのビジョンを、ティーフェンバッハー氏はこう表現する。

「私たちは、データではなく鍵を運ぶテレコムプロバイダーになりたいのです」

各国政府が描く「量子セキュアな未来」も追い風

 技術面での課題はすでに克服しているが、ティーフェンバッハー氏が次の壁として挙げるのは「市場の保守性」だ。「大企業が新技術を採用するには時間がかかります。量子はまだ非常に新しいため、企業は『今必要なのか、2年後でもいいのか』と様子を見がちです」

 だが、状況を変えつつあるのが政府の動きだ。

「各国政府が“量子セキュアな未来”への移行を強く後押ししています。ロシアや中国などが重要インフラへのサイバー攻撃を試みているとの懸念があるからです。これはヨーロッパや英国でも起きていますし、日本でも同様の脅威があるはずです」

 長期ビジョンについて、ティーフェンバッハー氏はこう語る。「今後2年間はヨーロッパ市場に集中しますが、この技術は世界中で求められています」

 ただし、展開地域は慎重に選定している。量子通信技術は軍民両用(デュアルユース)の性質を持つためだ。「我々の技術は安全保障上の理由から、中国、ロシア、北朝鮮などとは協力できません。今後はアメリカ、日本、オーストラリア、シンガポールといった民主主義圏の国々へ拡大したいと考えています」

量子コンピュータ時代を日本企業とともに

 ティーフェンバッハー氏は、日本企業との協業に大きな可能性を見出している。「すでに日本の大手企業1社を間接的なサプライヤーとして活用しています。単一光子検出に必要な極低温システムの一部を提供してもらっています」

 同社が使用する日本製システムは、もともと日本の標準電圧(100〜115V)向けに設計されており、ヨーロッパの230V仕様に合わせるための技術的調整も視野に入れている。「日本のメーカーと協力して、仕様を私たちの要件に適合させたいと考えています」

 また、実装段階での連携も期待している。通信事業者、データセンター運営企業、機器メーカー、そしてシステムインテグレーター、特にサイバーセキュリティと量子セキュリティの橋渡しとなる企業との協業余地は大きいという。「我々は暗号化の基礎となる“鍵”を提供するだけです。そこから先、鍵をどう活用して顧客にサービスとして届けるか——その“アプリケーション層”の構築が非常に重要です。日本にはこの領域で優れたソフトウェアセキュリティ企業が多く、強いパートナーになれると確信しています」

 最後に、日本の潜在的パートナーに向けて力強いメッセージを送った。

「量子コンピュータ時代のセキュリティに関心を持つ日本企業には、ぜひ我々と協力してほしい。ノーベル賞技術を商用化している企業は世界で我々だけです。そして、古い大企業ではなく、我々のような新しい挑戦者と組んでください。ゼロサードは若い会社ですが、世界最高の科学を基盤にしています」

image : Zerothird HP



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