一般的な抗うつ薬で寛解に至るのは患者のわずか3分の1。さらに6割が副作用に苦しむ──。長年変わらないこの精神医療の課題に、スウェーデン発のスタートアップFlow Neuroscience(フロー・ニューロサイエンス、以下フロー)が挑む。同社は経頭蓋直流電流刺激(tDCS)を用いたヘッドセットと行動療法アプリを組み合わせ、自宅で行える全く新しいうつ病治療を実現。医学雑誌ネイチャーメディシンに掲載された臨床試験では、主要抗うつ薬を上回る効果と「ほぼ副作用ゼロ」という画期的な成果を示した。欧州では2021年から商用化され5万人以上が利用、英国のNHS(国民保健サービス)との提携も進む。2025年には米FDA承認を控え、世界市場への拡大も目前だ。2022年にCEOに就任したエリン・リー(Erin Lee)氏に、デジタル精神医療の可能性と日本市場への展望を聞いた。

目次
薬に頼らないうつ病の治療選択肢の誕生
主要抗うつ薬を超える効果を実証
医療機器企業としては珍しいD2C戦略
FDA承認で市場拡大へ
大阪医科薬科大学と臨床試験へ

薬に頼らないうつ病の治療選択肢の誕生

 リー氏がフローに加わったのは、既存の精神医療における限界を強く意識したことがきっかけだった。

「私は過去20年ほど、グーグルやウーバーといった急成長する消費者向けテック企業でキャリアを積みました。その後、英国のヘルステック企業バビロンヘルス(Babylon Health)でデジタル・プライマリケアやバリューベースケアに携わり、初めてヘルスケア業界に入りました。そこで痛感したのは、メンタルヘルスの治療選択肢があまりに限られているという現実でした」

 フローは2016年に設立され、精神医療に革新を起こし、誰もがアクセスできる手頃なソリューションの提供を使命としてきた。まずはうつ病治療から着手し、今後は双極性障害、外傷性脳損傷、アルツハイマー病などへの展開も視野に入れている。

 従来のうつ病治療には大きな課題がある。一般的な抗うつ薬で寛解に至るのは3分の1未満にとどまり、約6割の患者は体重増加や性機能障害、症状悪化といった副作用に悩まされる。結果として、多くの患者が「治療を取るか、生活の質を犠牲にするか」という不本意な選択を迫られているのが現状だ。

 この課題に対し、同社が開発したのが統合型治療プラットフォーム「Flow 100」である。中核は、2ミリアンペア未満の微弱な電流を用い、うつ症状に関連する脳の特定部位を刺激するヘッドセット型デバイスだ。

「うつ病患者のMRIを見ると、左背外側前頭前皮質という領域の活動が低下しています。私たちは9ボルト電池程度の微弱な電流でこの領域のニューロンを刺激し、再活性化を促します」とリー氏は仕組みを説明する。

 さらに、患者のエンゲージメントやデータ収集を行う専用アプリと、医師が遠隔でモニタリングできる臨床ポータルを組み合わせ、包括的な治療エコシステムを構築している。

Erin Sivyer Lee
CEO
米アイオワ州のグリネル・カレッジで政治学を専攻後、Googleでキャリアをスタート。Uberでは北欧・中東オペレーションを統括し、海外展開を主導。デジタル・プライマリケアのBabylon Health(現eMed Healthcare UK)でヘルスケア分野に参入し、約4年半にわたりグローバル事業VP兼米国マネージングディレクターを務める。2022年にFlow NeuroscienceのCEOに就任。

主要抗うつ薬を超える効果を実証

 フローの最大の強みは、確固たる臨床エビデンスにある。リー氏によれば、173名を対象とした大規模臨床試験で56%の患者が寛解に至り、抗うつ薬(33%)やトークセラピー(28%)を大きく上回る効果を示した。

「この分野に約10年取り組んできましたが、競合といえる存在はほとんどいないと思います。私たちの本当の競合は既存の薬物療法です。薬はある患者には命を救うほど効果的ですが、脳全体を化学的に飽和させる、ある意味では鈍器のようなアプローチでもあります」

「Flow 100」の優位性は副作用の少なさにも表れている。リー氏は「私たちの治療では薬特有の副作用はありません。感じるのは刺激部位での軽いピリピリ感程度で、体重増加や性機能障害、症状悪化は起こりません」と強調する。

 こうした科学的裏付けが同社の急成長を支えている。Flow 100は欧州でクラスIIa医療機器(中等度リスク)として2021年に商用化され、現在は33カ国で5万人以上が利用。約900名の臨床医が処方し、英国の国民保健サービス(NHS)傘下の7つの医療機関でも導入されている。

「設立からわずか4年で5万人に到達しました。これまでに約200万回の刺激セッション、累計5,000万分の刺激時間を実現し、毎月1万人がアクティブに利用しています」とリー氏は実績を語る。

image : Flow Neuroscience 「Flow 100」

医療機器企業としては珍しいD2C戦略

 フローの成長を支えているのは、医療機器企業としては珍しいD2C(Direct to Consumer)モデルだ。「私たちは医療機器企業でありながらD2Cで成長しました。500ドルという価格設定がこれを可能にしています。ユーザーの約6割はデバイスを購入し、残りの4割は月額100ドルのレンタルを選んでいます」

 この戦略が奏功した背景には、市場に蓄積してきた強い未充足需要がある。

「営業チームの努力もありますが、それ以上に薬以外の治療法を求める声が非常に強いのです。市場には薬が溢れているにもかかわらず、精神医療の危機は深まるばかり。根本的に何かが間違っていると多くの人が感じています」

 実際、NHSとの最初の契約はすべてインバウンドで獲得された。リー氏は「NHSでは診療予約を53%削減し、患者一人あたり年間2,500〜2万ドルの2次医療費削減を実現しました。デバイスが効果を示したことで需要が自然に広がったのです」と語る。

 成長の軌跡は数字にも表れている。ネイチャーメディシンでの臨床試験発表後、約1年半で年率3〜8倍の成長を達成。2025年末には年間売上高1,000万ドル規模に到達する見込みだ。

image : Flow Neuroscience

FDA承認で市場拡大へ

 フローは2025年第4四半期に予定されるFDA承認を控え、グローバル展開を本格化させる。

「すでに複数の保険会社や臨床医から強い関心を得ています。18カ月以内には米国市場が欧州を上回ると予想しており、政府系・民間保険会社やクリニックチェーンとのパートナーシップも検討しています」

 同社が開発中の次世代デバイスにも注目が集まる。「完全なクローズドループ機能と診断コンポーネントを搭載し、ユーザーごとに最適化された治療を可能にします。これにより寛解率90%を実現できる見込みです。これは前例のない数値です」とリー氏は語る。

 長期ビジョンは「すべての家庭にヘッドセットを」。うつ病治療で実績を築いたのち、双極性障害、外傷性脳損傷、PTSD、記憶障害、依存症などへ適用範囲を拡大し、治療だけでなく予防やウェルネス分野にも進出していく考えだ。

 日本をはじめとする高齢化社会では、認知症やうつ病など脳疾患の治療ニーズが急速に高まっている。リー氏は「アルツハイマー病のような疾患に対しても、神経可塑性を高め、ニューロン結合を改善することで集中力や記憶力の向上が期待できます」と、高齢者ケア市場での可能性に言及する。

「病気になってから治療するのではなく、脳を鍛えて最適化することが当たり前になる未来を描いています。10年後には、今は『風変わりな治療』と見られるものが、普遍的な選択肢になっていることを願っています」

大阪医科薬科大学と臨床試験へ

 フローは日本市場への参入に強い意欲を示している。すでにキリンホールディングスやグローバル・ブレインが投資家として参画し、大阪医科薬科大学との臨床試験も決定した。

「日本の規制環境は確かに厳しいですが、私たちは大阪医科薬科大学をパートナーに選び、承認取得に向けた臨床試験を予定しています。2026年中の完了を目標としています」

 同社が重視するのは、利益最大化ではなくミッション実現に資する戦略的パートナーシップだ。

「市場に精通し、私たちのミッションに共感してくれるパートナーを探しています。重要なのは利益ではなく、日本の消費者と患者に真にアクセスしやすく、手頃な価格でソリューションを届けることです」

 その形態はジョイントベンチャーや共同ブランディング、流通提携など多様に考えられている。

 最後にリー氏は、日本企業との協業への期待をこう述べた。

「ぜひご連絡ください。この技術をできるだけ多くの人々に届けたいと考えています。適切なパートナーを見つけることに強い関心があり、常に対話の機会を歓迎しています」



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